高屋城

高屋城たかやじょう
大阪府羽曳野市古市5丁目
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--本丸・安閑天皇陵--
別名       
交通 各線「古市駅」から徒歩15分。
築城年代 1469〜1501年(文明〜明応年間)
築城者 畠山義就・同政長・同基家
形式 平城
主な城主 畠山高政・三好康長
1467年(応仁1)御霊林合戦に始まる応仁・文明の乱終結後、守護畠山義就または政長、あるいは基家のいずれかにより築かれたと推定される。以後約100年余り、守護畠山氏又は三好一族の拠点となり、度重なる争乱で城主は目まぐるしく入れ替わり、合戦数も摂津・河内・和泉3国中、群を抜く。
1551年(天文20)畠山政国の跡を継いだ高政は暗殺された遊佐長教に代わって安見宗房(直政)を守護代とするが、やがて宗房は高政に替わって実権を握ろうとし、1558年(永禄1)高政を高屋城から追った。これに三好長慶は兵を向け、高屋城に籠もっていた宗房は飯盛山城を経て大和国へ逃れた。高政は高屋城に復帰するが、その後宗房と和睦した為、長慶に攻められ紀伊へ逃れると、高屋城には長慶弟である実休(義賢)が入城した。1562年(永禄5)久米田合戦後、再び高政が入城するが、続く教興寺合戦で敗れると、長慶甥である義継が城主となった。
1568年(永禄11)織田信長が足利義昭を擁して入京し、摂河から三好三人衆を追うと、畠山昭高(秋高)が入城して河内国南半分を与えられ、河内国北半分は若江城に入城した義継が領した。しかし1572年(元亀3)守護代遊佐信教の下克上により、昭高は自害した。これに激怒した信長は大軍で高屋城に押し寄せ、信教を追い、昭高に嫁いでいた姪を救い出した。
その後高屋城は三好康長が入城し、修築されたが、1575年(天正3)4月8日、再び信長に攻められ落城、以後高屋城は廃城となった。
安閑天皇陵を本丸とし、南に二の丸・三の丸と続いていたとされるが、一帯は宅地化されている。
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二の丸跡に立つ城山姥不動尊
城山姥不動尊に立つ案内板 城山姥不動尊前の道は堀跡か

参考文献 「現地案内板」
              「歴史群像シリーズ 学研」
                    「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」  
訪城回数 1
2009年5月