高祖城

高祖城たかすじょう
福岡県糸島市高来寺・高祖
Mapion
登山口地図

--本丸に立つ標柱--
別名 原田城・高祖山城
交通 JR筑肥線「周船寺駅」からバス「高来寺」下車。
地図の地点に怡土城経由の登山口があります。
築城年代 1249年(建長1)
築城者 原田種継
形式 山城
主な城主 原田信種
1249年(建長1)原田種継が廃城になっていた怡土城の一部を利用して築いたとされる。
室町時代から戦国時代にかけて原田氏は大内氏に従うが、1551年(天文20)大内義隆滅亡後、陶晴賢が大友氏と結んで西下し、1553年(天文22)原田隆種(了栄)が拠る高祖城を攻め落とした。しかし1555年(天文24)厳島合戦で陶氏が滅ぶと隆種は高祖城に戻り、1567年(永禄10)大友方に寝返っていた筒城・宝珠山城・波呂城を攻略した。その後一時大友氏傘下に入るが、1578年(天正6)高城川合戦後、大友氏が衰退すると、大友氏郡代である柑子ヶ岳城主臼杵氏を破り、糸島地方全域を治める国人となった。
1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐の際、島津氏に従った城主信種は高祖城に籠るが、小早川隆景率いる1万の軍勢に攻められ、降伏、高祖城は廃城となる。信種は隆景傘下に入り、その後加藤清正の与力を命じられ、1598年(慶長3)朝鮮の役で討死した。跡を継いだ嘉隆は唐津城主寺沢氏に仕えるが、1638年(寛永15)寺沢氏2代堅高の時、松倉氏と共に島原・天草の乱の責任を問われ、寺沢家が断絶すると、江戸に出て保科正之に仕えて会津に移り、以後原田氏は東北の地で存続した。
標高416メートル高祖山山頂の「上ノ城」とその下方の「下ノ城」と呼ばれる2つの曲輪群から構成される。「上ノ城」は3段の曲輪から成り、石積みや礎石が残されており、東斜面には竪堀が設けられている。「下ノ城」は2段の曲輪から成り、築城当初の中心的な曲輪と考えられている。
下ノ城上段 下ノ城に立つ標柱 下ノ城下段
石積み 上ノ城下段 上ノ城
上ノ城土塁 上ノ城東下虎口 上ノ城東下石積み

参考文献  「福岡県の城郭 銀山書房」
                   「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」 
訪城回数 1
2019年12月