「廣瀬文書」の1340年(暦応3)の項に見える「鰐城」が史料上の初見だが、築城年代ははっきりしない。 城主和仁氏は元々菊池城主菊池氏に仕え、1550年(天文19)大友義鑑・義鎮と対立して亡命していた菊池義武が肥後国の支配権を回復しようとした際、「和仁弾正忠」が義武に与し、三池・大津山・辺春・東郷・大野氏らと共に筒ヶ岳城を攻めた記録が残る。 1584年(天正12)田中城は龍造寺・田尻氏に攻められ、落城し、田尻石見守の持城となるが、その後和仁氏が復帰し、島津氏に従った。 1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐の際、和仁氏は辺春氏・大津山氏と共に早々と開城して降り、本領を安堵された。しかし秀吉から肥後一国を与えられ、隈本城に入城した佐々成政の検地に国衆は反旗を翻す。和仁親実もこれに加わり、弾正親範・人鬼親宗の2人の弟と姉婿である辺春親行と共に田中城に籠城するが、小早川秀包・安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門らおよそ1万の兵に囲まれ、38日後の12月5日、内部の裏切りにより落城した。 和仁川流域に広がる水田地帯を臨むように南に延びた舌状台地上に位置する。中央部の平坦な一区画を本丸とし、約2メートルの段差をつけて西側を除く3方に曲輪を設けている。更にその下方に空堀を廻らせ、南・北・西の3ヶ所の高台を出丸としている。現在城址公園として綺麗に整備されており、本丸跡には冠木門や発掘調査により判明した14棟の掘立柱建物跡・溝状遺構が復元表示されている。 |