菊池城

菊池城きくちじょう
熊本県菊池市隈府
Mapion

--菊池武光像--
別名 隈府城・雲上城・菊池本城
交通 「桜町バスターミナル」からバス「菊池温泉・市民広場前」
下車。
築城年代 1346〜70年(正平年間)
築城者 菊池武光
形式 山城
主な城主 菊池氏
1346〜70年(正平年間)15代菊池武光により築かれ(16代武政の頃とも)、菊之池城から移ると菊池氏代々の本城として続いた。
武光は征西大将軍として九州へ派遣された懐良親王を擁し、九州南朝方の盟主として活躍、1353年(正平8)少弐頼尚と結び、筑前針摺原合戦で九州探題一色範氏に勝利すると、翌年大友氏泰次いで宇都宮公綱を降し、更に1358年(正平13)11月、日向日和城日向石山城に拠る畠山直顕とその子重隆を戦場川原合戦で破ると九州における北朝方勢力はほぼ一掃された。しかし少弐頼尚は大友氏時と謀り、突如反旗を翻した。
1359年(延文4)武光は筑後国高良山に布陣し、大保原合戦で少弐・大友氏に勝利、征西府を大宰府へ移し、九州における南朝方の覇権を確立した。
しかし1372年(応安5)室町幕府から渋川義行の後任として九州探題に任命された今川了俊(貞世)に大宰府を落とされると、武光は筑後高良山に退き、2年余り了俊と対峙した。その間武光・武政が2代続けて陣没すると、跡を継いだ武朝は高良山を撤退し、帰国した。その後武朝は肥後に攻め入った了俊を水島合戦、詫麻原合戦で退けるも次第に押され、1381年(永徳1)菊池本城を失ったが、1392年(明徳3)南北朝合一後、本拠を回復した。
戦国時代に入ると菊池氏は家督争いが続き、1532年(天文1)菊池武包没後、勢力は衰え、豊後大友氏に敗れた。嫡流は断絶するが、一族は日向国米良へ逃れ、米良氏を称した。
菊池神社を本丸とし、月見殿跡・金比羅神社付近(現菊池公園付近)が二の丸・三の丸であったといわれ、公園化により大きく改変されているが、菊池神社裏手に堀や土塁が残されている。また菊池神社北側に建つ雲上宮神社は御在所跡とされ、征西将軍宮跡碑が立つ。
市民広場に立つ菊池武光像 菊池公園 菊池神社
菊池神社境内に建つ城山神社
10代武房・21代重朝を祀る
菊池境内に立つ菊池武光像 菊池神社裏手に残る空堀
雲上宮神社下にある溜池 Mapion
雲上宮神社
雲上宮神社
征西将軍宮跡碑 Mapion
正観寺礎石群
武光創建とされる
Mapion
菊池武光墓所

参考文献 「現地案内板」
                          「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2016年12月