富田松山城

富田松山城とだまつやまじょう
岡山県備前市東片上
Mapion
登山口地図

--出丸から本丸方面--
別名    
交通 JR赤穂線「備前片上駅」から登山口まで徒歩10分。
築城年代 1469〜87年(文明年間)頃
築城者 浦上氏
形式 山城
主な城主 浦上国秀
1468年(応仁2)備前国守護代になり、三石城を居城とした浦上則宗の時、西の守りとして築かれたと考えられる。以後富田松山城は、浦上氏の出城として浦上氏一族、又は有力家臣が代々城主であったと思われる。
1531年(享禄4)下克上により戦国大名に成長した浦上村宗が大物合戦で敗死すると、跡を継いだ長男政宗は2人の弟と不和になり、長男政宗は室津城、次男宗景は天神山城、三男国秀はこの富田松山城に分立する。この時富田松山城は国秀により大規模な改修が行われたと思われる。怒った政宗は三石城と富田松山城を攻め、国秀を降伏させると、続いて天神山城に宗景を攻めた。しかしこの時宗景は良く守り、政宗は退却している。
やがて政宗の勢力が衰えると、宗景の備前支配が始まり、1532〜55年(天文年間)富田松山城は宗景直轄の出城として、再び国秀が城主となった。
1577年(天正5)宗景は家臣で戦国大名化しつつあった宇喜多直家に天神山城を追われると、次いで景行が籠もる富田松山城も直家に攻められ落城し、廃城となった。
東出丸
土塁が囲んでいたというが
現在は消滅している
三の丸東下堀切 三の丸
大手曲輪
石積みも見られる
二の丸 本丸虎口
本丸 本丸土塁 本丸から北東方面

参考文献 「現地案内板」
                    「広島・岡山の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年1月