1531年(享禄4)三石城主浦上村宗が大物合戦で敗死すると、跡を継いだ村宗の長男政宗は2人の弟と不和になり、政宗は室津城に居城を移し、次男宗景は天神山城、三男国秀は富田松山城に分立した。天神山城はこの頃築かれたとされるが、この天神山城は南東尾根続きの天神山山頂に築かれている太鼓丸城と考えられている。その後1533年(天文2)頃、この別峰山頂にあった天石門別神社を麓に移して旧境内を本丸とし、現在見られる城郭が整備されたと考えられている。そして1577年(天正5)宇喜多直家に攻め落とされるまで、宗景一代限りの居城となった。 宗景は兄政宗や置塩城主赤松晴政、月山富田城主尼子氏との戦いを経て、1532〜55年(天文年間)末頃までに戦国大名としての地位を確立した。 しかし1559年(永禄2)頃より家臣であった宇喜多直家が台頭すると、次第に勢力は逆転した。1568年(永禄11)金川城主松田氏を滅ぼした直家は公然と宗景と敵対するようになり、宗景は信長を頼ってこれに抵抗するが、1577年(天正5)8月10日、直家に攻められた天神山城は内応者も出て落城、城を追われた宗景の消息は諸説あり、定かではない。その後岡山平野を本拠地とする直家は戦略的価値の無くなった天神山城を廃城にした。 吉井川中流左岸、天神山一帯に築かれた総延長500メートルに及ぶ連郭式山城で、天神山山頂の太鼓丸、北西麓の侍屋敷も含め、岡山県下でも有数の規模を誇る。 |