1338年(延元3) 新田義貞×斯波高経 --新田義貞戦没伝説地-- |
交通 | えちぜん鉄道三国芦原線「八ツ島駅」から徒歩10分。 |
1337年(延元2)3月、金ヶ崎城落城後、杣山城を拠点とする新田義貞ら南朝方は、翌年、斯波(足利)高経が拠る府中城を攻め落とすと、足羽に逃れた高経は大黒丸城に籠もり、足羽七城と呼ばれる支城を築いて守りを固めた。 同年閏7月2日、義貞は斯波方平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻めていた味方を支援する為、僅か50騎を率いて出陣するが、同じく藤島城救援の為、黒丸城を出陣した斯波勢300騎と燈明寺畷で遭遇した。この一帯は水田地帯で乱戦の末、矢を射られ、深田に落馬した義貞は自害した。 1656年(明暦2)福井藩軍学者であった井原番右衛門がこの地の水田から掘り出された鉄製の兜を新田義貞のものと鑑定した事から義貞戦死の地と考えられるようになり、新田塚と呼ばれるようになった。 |