金ヶ崎城

金ヶ崎城かねがさきじょう
福井県敦賀市金ケ崎町
Mapion

--三の木戸跡--
別名 敦賀城
交通 各線「敦賀駅」から登山口金ヶ崎宮まで徒歩35分。
または手筒山山頂からハイキングコースを通り15分。
築城年代 1336年(建武3)以前
築城者     
形式 山城
主な城主 新田義貞・朝倉景恒
築城者・年代は不明だが、1181年(養和1)平通盛が木曽義仲を迎え撃つ為に拠ったという「敦賀城」に比定されている。
1336年(建武3)10月、足利勢に追われた南朝方新田義貞が、尊良・恒良両親王を奉じ籠もった。南朝方は気比宮司の気比氏治の加勢を得て抵抗するが、翌年3月6日に落城し、尊良親王と義貞の子義顕は自害、恒良親王は捕らわれ、京へ送られた。生き延びた義貞は脇屋義助らと共に杣山城を拠点とし、越前府中城主斯波(足利)高経と争った。
1351年(観応2)足利尊氏と不和になった足利直義が拠り、1459年(長禄3)には越前守護斯波義敏に背いた守護代甲斐常治が拠った。
1471年(文明3)朝倉景冬が敦賀郡司に就任すると、金ヶ崎城は代々郡司の居城となった。
1570年(元亀1)4月、越前攻略の為、若狭入りした織田信長は、25日に国吉城を拠点として敦賀に侵攻、妙顕寺を本陣とし、その日の内に南方尾根続きにある手筒山城を攻略、翌日朝倉景恒が籠もる金ヶ崎城も落とした。そしてこのまま越前に攻め入ろうとした信長であったが、突如近江国小谷城主浅井長政が蜂起すると、朝倉氏と浅井氏に挟撃される形となり、窮地に陥った。しかし殿を務めた木下藤吉郎(豊臣秀吉)の活躍により、信長は無事帰京する事が出来たと伝えられる。「金ヶ崎の退き口
手筒山山頂から見る金ヶ崎城
中央右側、海に突き出した岬に
築かれている
一の木戸跡 二の木戸跡下堀切
二の木戸跡 三の木戸跡堀切 金ヶ崎古戦場碑
本丸(月見御殿) 月見御殿碑 Mapion
妙顕寺
信長本陣跡

参考文献 「戦国の山城 学研」
                    「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2011年4月