1278〜88年(弘安年間)森三郎朝通により築かれたと考えられるが、それ以前1155年(久寿2)源為朝が築いたとの伝承も残る。 その後玖珠郡衆が共同で管理する番城となり、1586年(天正14)12月、大友氏攻略の為、玖珠郡に侵攻した島津軍6千は翌年1月から3月にかけて角牟礼城を幾度も攻めるが、城主森五郎左衛門をはじめ、籠城方の将古後氏・太田氏ら玖珠郡衆1千人は良く守った。また弓の名手であった宿利外記が三の丸に迫る島津軍を中平で撃退する活躍もあり、島津軍は攻略する事が出来なかった。 1593年(慶長2)大友義統(吉統)が改易となると、翌年毛利高政が入部し、この時近世城郭として大改修が行われた。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、高政が佐伯城に移ると、一時黒田孝高の預かり地となるが、1601年(慶長6)伊予国鹿島城から来島康親(長親)が入部すると、山麓に居館が設けられ、角牟礼城は廃城となった。 山頂の本丸から南西に二の丸・井戸曲輪・三の丸が設けられ、本丸南東にも曲輪群が配置されている。現在見られる遺構は毛利氏によるものと考えられ、中世城郭から近世城郭へ移行する過度期の城として評価されている。各曲輪には石垣が築かれており、特に搦手門跡付近には大規模な穴太積みによる石垣が良く残されている。 |