鳥取県鳥取市鹿野町鹿野 --二の丸櫓台跡・外堀-- |
別名 | 王舎城・志加奴城・鹿奴城 |
交通 | JR山陰本線「浜村駅」からバス「鍛冶町」下車。 |
築城年代 | 不明 |
築城者 | 志加奴氏 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 亀井茲矩 |
築城年代は不明だが、志加奴氏が代々居城したとされる。古くからの国侍であった志加奴氏は山名氏に属し、1391年(明徳2)山名氏清・満幸が挙兵した明徳の乱の際、討死した部将の中に志加奴七郎の名が見える。 1543年(天文12)出雲国月山富田城主尼子晴久が侵入した際、布施天神山城主山名氏は大崎城と志加奴城を前線拠点として対抗した。大崎城が一戦も交えず落城すると、志加奴城も大軍に攻められ、志加奴入道は奮戦の末、自刃して果てたという。 1558〜70年(永禄年間)尼子氏に代わり毛利氏の勢力が因幡国に及ぶと、山名豊成は布施天神山城から鹿野城に移り、この地方の守りを固めるが、1563年(永禄6)鵯尾城主武田高信に謀殺された。更に高信は布施天神山城を攻め、豊数は鹿野城に逃れている。 天正年間に入り、鳥取城主山名豊国が毛利氏に属すようになると鹿野城には毛利氏の城番が在城し、山名氏の人質が置かれ、鳥取城の監視にあたる目付の城となった。 1580年(天正8)織田信長方羽柴秀吉の第一回鳥取城攻めが始まると、鹿野城は攻略され、尼子家旧臣である亀井茲矩が城番として在城、翌年鳥取城が落城すると、気多郡1万3千石で鹿野城主となった。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、東軍に属した茲矩は高草郡を加増されて3万8千石となり、鹿野城は近世城郭へと大改修が行われた。茲矩はシャム(現在のタイ)等と御朱印船貿易で得た資材で「オランダ櫓」・「朝鮮櫓」や居室を築き、またインドの仏跡に因み、鹿野城を王舎城(おうしゃじょう)、城下を鹿野苑(ろくやおん)、山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を流沙川(りゅうしゃがわ)・抜堤川(ばったいがわ)と呼ばせた。 1612年(慶長7)茲矩没後、政矩が跡を継ぎ、1617年(元和3)石見国津和野城へ移った。同年播磨国姫路城から池田光政が鳥取城に入城すると老臣日置忠俊が鹿野を領し、山麓に屋敷を構えるが、1628年(寛永5)出火し、廃城となった。その後1632年(寛永9)播磨国山崎藩から改易となった池田輝澄が池田光仲預かりの身となり、堪忍料1万石でこの地に住した。 鹿野城は背後に築かれた山城と亀井氏時代に整備された山麓の本丸・二の丸から成る。二の丸は中学校、本丸はグラウンドとなるが、周囲に水堀や土塁が残されている。山城部は改変されている箇所も多いが、いくつかの平場が残り、山頂の天守台跡には礎石が確認出来る。 |
二の丸北外堀 | 二の丸櫓台跡・外堀 | 二の丸 |
本丸北内堀 | 本丸虎口 | 本丸 |
本丸西物見跡 | 山頂に残る天守台跡 | 天守台跡からの眺め |
天守台跡下に残る石垣 | 幸盛寺 |
幸盛寺境内に立つ山中幸盛墓 |