1356年(延文1)羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)によって築かれる。その後室町時代を通じて兼頼の子孫は山形に居城し、1394〜1428年(応永年間)頃、領内の要所に子弟や家臣を配して城を築かせ、これを俗に「最上四十八館」という。在地権力の強化を図ったものであるが、1469〜87年(文明年間)頃から、これら分封された一族は分立するようになり、次第に最上宗家と対立して戦国時代を迎える。 兼頼から10代目、最上義光は宗家と対立する中野城や天童城、上山城等を討伐平定し、最上一円を領有した。山形城も義光によって本格的に拡張整備され、現在の山形城の原型とされている。また山形城は霞ヶ城とも呼ばれ、これは1600年(慶長5)慶長出羽合戦の際、城郭が霞で隠れたという伝承に由来する。 1622年(元和8)最上氏が改易となると、磐城平城から鳥居忠政が24万石で入城し、山形城は大改修された。鳥居氏が2代続いた後、城主は目まぐるしく替わり、その都度石高は減り、1845年(弘化2)遠江浜松城から水野忠精が入城した時、5万石であった。その間城内の改修はほとんど行われず、幕末まで衰微の一途をたどり、江戸中期以降、城の経営は困難となり、藩館は城外に置かれ、城内は荒廃していたとされる。 |