神奈川県平塚市山下 --南東土塁-- |
別名 | 山下館・住吉要害 |
交通 | JR東海道本線「平塚駅」からバス「下万田」下車。 |
築城年代 | 鎌倉時代初期 |
築城者 | 宮内判官家長か |
形式 | 館(平城) |
主な城主 |
山下長者という人物については諸説あるが、遺構から鎌倉時代初期の築城と考えられ、同時期、この地に在った宮内判官家長またはそれに縁があった人物と考えられている。また藤原実基の事ともいわれ、現在屋敷跡東側にその娘で曽我兄弟の兄祐成の恋人虎御前を祀る祠や虎女住庵跡の碑がある。 1510年(永正7)7月、伊勢宗瑞(北条早雲・伊勢新九郎盛時)方に内応した扇谷上杉氏家臣上田政盛が権現山城に拠り、連合した山内・扇谷上杉氏と争った際、これに応じた伊勢宗瑞が後詰として住吉要害と高麗寺山を取立て籠もった。「新編武蔵国風土記稿」では住吉城(逗子市)としているが、山下長者屋敷がこの住吉要害ではないかと推測されている。 1561年(永禄4)3月、上杉謙信による小田原攻めの際には、謙信が陣城として利用したともいわれる。 |
表門 | 案内板 | 虎女住庵跡 |