愛媛県今治市来島 --南東、糸山公園から来島遠望-- |
別名 | |
交通 | 「波止浜港」から定期便で5分。 |
築城年代 | 1419年(応永26)頃 |
築城者 | 村上顕忠(吉房) |
形式 | 海城 |
主な城主 | 村上通康・来島通総 |
1419年(応永26)頃、村上師清の跡を長男義顕(吉顕)、次男顕忠(吉房)、三男顕長(吉豊)の3子(師清の弟義信の子義胤の3子とも)が相続し、それぞれ能島・来島・因島3家に分立した頃に築かれたと考えられる。以後三島村上氏は同属関係を持ちつつ、外部環境に影響されながら独自の活動を行い、それぞれの地域で勢力を確保した。 来島村上氏は初代顕忠、または2代吉元の頃から湯築城主河野氏に直属し、内海航路の警備に任ぜられていたと考えられる。 4代通康は河野通直の娘を娶って勢力を伸ばし、1541年(天正10)河野家後継者として指名されるが、それに反対した河野一族・家臣団と対立する。河野一族・家臣団は通政(晴通)を擁立して通直に背くと、通直は通康と共に来島城に退去した。1543年(天文12)来島城は通政勢に攻められ、半年に及ぶ攻防が繰り広げられたが、この時は和睦が成立した。 1555年(天文24)厳島合戦において来島水軍の参戦はあったと思われるが、通康自身が参戦したかは不明。また通康の時、居館を波方浦に移しており、来島城は詰城の役割を持つようになった。 1567年(永禄10)通康没後、通総が跡を継いだ。1576年(天正4)第一次木津川口合戦の際、能島・因島村上氏と共に火矢戦法により九鬼嘉隆を総大将とする織田水軍に大勝、毛利軍の石山本願寺への兵糧搬入に貢献した(通総自身は参戦しなかったとみられる)。しかし1578年(天正6)第二次木津川口合戦では鉄甲船を用いた嘉隆率いる織田水軍に敗れている。 代々河野氏に臣従していた来島村上氏だが通総の頃から対立するようになっていた。1579年(天正7)9月、鹿島城代二神氏と結託し、河野氏に反旗を翻した通総は織田信長に接近し、1582年(天正10)羽柴秀吉の勧降工作に応じて織田方に転じた。この時村上三家は分裂し、因島村上吉充・能島村上武吉は毛利方に留まっている。またこの頃通総は来島氏を称するようになったといわれる。来島城は毛利・河野氏・因島村上氏・能島村上氏に攻められ、通総は秀吉の下へ逃れた。 同年10月、来島城に復帰した通総は、1585年(天正13)秀吉による四国攻めの際、毛利軍の先鋒として活躍した。戦後伊予国が小早川隆景に与えられると、通総と兄得居通幸は風早郡の鹿島城と恵良城を与えられ、それぞれ1万4千石と3千石を領した。この時通総が鹿島城に居城を移すと来島城は廃城となった。 その後文禄・慶長の役において通総・通幸兄弟は討死し、康親(長親)が跡を継ぐが、1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、西軍に属した為、戦後豊後国森へ移封となった。この時海の無い豊後国森に多くの家臣団が従わなかったとされる。伊予国に残った旧家臣達は塩田開発や海運、造船を行い、現在の今治市の礎を築いたといわれる。 |
八千矛神社 来島城の守り神として 河野氏により建立された |
城址碑・石垣 | 心月庵 城主居館跡 |
出丸 | 三の丸石垣 | 二の丸に建つ村上神社 |
二の丸 | 本丸 | 本丸からの眺め |
来島東岩礁 | 来島東岩礁に残る柱穴 | 来島北岩礁 |
来島北岩礁に残る柱穴 | 来島西岩礁 | 来島西岩礁に残る柱穴 |
来島漁港から見る来島城 | 対岸に残る水場 |
西対岸から来島遠望 |