朝倉城

朝倉城あさくらじょう
高知県高知市朝倉丁
Mapion
案内板・登城口地図

--城址南横堀--
別名 重松城
交通 JR土讃線「朝倉駅」から徒歩20分。
地図の地点、北城山公民館に案内板・登城口があります。
築城年代 1521〜28年(大永年間)
築城者 本山梅慶(清茂)
形式 平山城
主な城主 本山茂辰
1521〜28年(大永年間)長岡郡本山城を本拠とする本山梅慶(清茂)が土佐平野部への進出、支配拠点として築いた。
1540年(天文9)梅慶は吉良城主吉良宣直を攻略し、朝倉城を拠点に勢力を拡大していく。1555年(弘治1)梅慶死後、跡を継いだ茂辰の頃には朝倉城を中心に広大な地域を領有した。
茂辰は岡豊城主長宗我部国親の娘婿であったが、やがて不和となり、浦戸城長浜城を築いて対峙した。
1560年(永禄3)茂辰は長浜戸ノ本で国親と争うが、初陣であった国親の子元親の活躍もあり、浦戸城へ敗走すると、その後朝倉城へ逃れた。同年国親は亡くなるが、跡を継いだ元親は侵攻を続け、1562年(永禄5)半ば、土佐平野部における本山氏の拠点は朝倉城と吉良城のみになっていた。元親は朝倉城へ迫り、一進一退の攻防が繰り広げられるが、朝倉城の維持が困難になった茂辰は、翌年自ら朝倉城に火を放つと、本山城へ引き上げ、同時に吉良城の本山勢も撤退した。
その後元親は朝倉城に重臣細川宗桃を置いたが、長宗我部氏の土佐統一、四国制覇の過程で廃城になったようである。
城址南側の大規模な二重横堀を始め、遺構は良好に残されている。城内には至る所に石垣が築かれているが、耕作に伴うものもあるようで、どこまでが往時のものかは不明。
城址から東側の眺め 詰ノ段北東下、登城路(竪堀)石垣 詰ノ段(本丸)
詰ノ段虎口 詰ノ段土塁 詰ノ段北下井戸
詰ノ段・西ノ段間堀切 西ノ段下、土橋 西ノ段下、竪堀
西ノ段 西ノ段下土塁 西ノ段西石垣

参考文献 「歴史群像シリーズ 学研」
                「香川・徳島・高知の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2012年10月