1542年(天文11) 織田信秀×今川義元 --古戦場碑-- |
交通 | 名鉄名古屋本線「男川駅」から徒歩15分。 |
1535年(天文4)三河国を平定し、その勢いに乗じて尾張国に進出した岡崎城主松平清康(徳川家康の祖父)が尾張国守山で誤って家臣阿部正豊(弥七郎)に討たれる事件が起こると松平氏は急速に衰え、今川家の保護国的な扱いとなり、長い雌伏期間が続く事となる。(守山崩れ) 1540年(天文9)6月、織田信秀(信長の父)は松平方の有力支城であった安祥城を攻略すると前線拠点とし、矢作川東岸部に進出を図る。 1542年(天文11)これを望まない今川義元は生田原に4万の軍勢を進め、出撃してきた4千の織田勢とこの小豆坂で争った。この時織田方の7人(小豆坂7本槍)の活躍もあり、信秀勢が勝利したとされるが、この天文11年の合戦は無かったという説もある。 1548年(天文17)3月、信秀は岡崎城攻撃の為に出陣、義元も松平広忠(徳川家康の父)救援の為、太原雪斎を将とする軍勢を出し、再び小豆坂で争った。この時松平家臣酒井正親らの活躍によって今川・松平連合軍が勝利し、翌年安祥城を奪還するが、織田・今川両者の争いは1560年(永禄3)桶狭間合戦まで続く事となる。 1564年(永禄7)には独立を果たした徳川家康が土呂・針崎の一向一揆勢と小豆坂・馬頭原で争っており、小豆坂一帯は数々の合戦の場となった。 |
血洗池跡碑 | 槍立松碑 | 小豆坂戦没者慰霊碑 |