安祥城

安祥城あんじょうじょう
愛知県安城市安城町赤塚
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--本丸跡に建つ大乗寺--
別名 森城
交通 名鉄西尾線「南安城駅」から徒歩15分。
築城年代 1440年(永享12)
築城者 和田親平
形式 平城
主な城主 安祥松平氏・織田信広
1440年(永享12)安祥古城を拠点としていた和田親平により築かれたとされる。
1471年(文明3)岩津城主松平氏3代信光は謀略により攻略すると3男親忠(安祥松平家初代)を入れ、岩津城には惣領として親長を置いた。以後、安祥城は親忠・長親・信忠・清康が続いて居城し、1524年(大永4)清康が岡崎城に移るまでの約50年間安祥松平氏本拠となるが、長親の時、宗家である岩津松平家は没落し、代わって安祥松平家が惣領になったと考えられる。
1540年(永正9)古渡城主織田信秀に攻め落とされると三河における織田方の最前線となり、その後安祥城を巡り、織田・松平両氏との間で攻防戦が繰り返された。
1548年(天文17)太原雪斎率いる今川・松平連合軍は小豆坂合戦に勝利すると、翌年織田信広が守る安祥城を攻め落とした。そして捕虜とした信広を織田家に捕らわれていた竹千代(徳川家康)と人質交換を行い、安祥合戦は終結した。
1560年(永禄3)桶狭間合戦後、織田・松平両氏との間で清州同盟が結ばれると、安祥城は廃城になったとされるが、近年の研究では、1584年(天正12)小牧長久手合戦の際、徳川勢により改修が加えられたとも考えられている。
現在本丸跡には大乗寺が建ち、境内に僅かに土塁が残り、北側には安祥合戦で討死した本多忠高墓碑が立つ。南側の八幡社境内は二の丸跡で、安祥合戦で討死した善恵坊の碑や姫塚がある。また城址周辺にも安祥合戦史跡が点在している。
本丸堀跡 大乗寺境内に立つ本多忠高墓碑 隅櫓跡
筒井
安祥城周辺に在った七ツ井の一つ
二の丸跡に建つ八幡社 善恵坊碑
姫塚 Mapion
東条塚
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本多忠豊墓碑

参考文献 「現地案内板」
                        「静岡・愛知・岐阜の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年12月