福与城

福与城ふくよじょう
長野県上伊那郡箕輪町福与
Mapion

--西・天竜川対岸から城址遠望--
別名 箕輪城・鎌倉城
交通 JR飯田線「木ノ下駅」から徒歩25分。
築城年代 南北朝時代
築城者 藤沢行親
形式 平山城
主な城主 藤沢頼親
天竜川東岸段丘に位置する藤沢氏本城。
城の創建については明らかではなく、鎌倉時代とも、又は南北朝時代に足利尊氏家臣であった藤沢行親が箕輪六郷を与えられ、館を築いて移り住んだ事に始まるともいわれる。
藤沢氏は代々箕輪を領し、1542年(天文11)以降の武田氏伊那郡侵攻の際、城主藤沢頼親の頃の記録が福与城の文献上での初見となる。
1544年(天文13)武田信玄は有賀峠を超えると荒神山城に陣を置き、この福与城を攻めたが、形成不利と見て一度上原城に引き返した。
1545年(天文14)4月、武田信玄が再び福与城を攻めた際、5月20日後詰として林城主小笠原長時が龍ヶ崎城に陣し、武田勢が布陣する荒神山城に相対した。北は龍ヶ崎城、南は福与城と挟み撃ちの格好となった武田氏は、5月21日小山田信有らに龍ヶ崎城を攻めさせ、6月初め板垣信方の攻撃により落城し、長時は林城に撤退した。10日援軍を失った頼親は弟を人質に出し、福与城は開城した。
しかし頼親は長時の妹を妻としていた為、1551年(天文20)林城を追われた小笠原氏と共に中塔城に籠もり、再び武田氏に抵抗した。その後も長時と行動を共にし、一時三好長慶の食客になっていたともされるが、やがて再びこの地に戻り、武田氏に従ったといわれる。
頼親は田中城を築き、移り住んでいたが、1582年(天正10)本能寺の変後、後北条氏に従った為、徳川家康方保科・知久・小笠原信嶺らに攻められ自害した。
南から城址遠望 主郭南空堀 土橋
主郭(本城) 主郭から見る北城 主郭・二郭(姫屋敷)間空堀

参考文献 「現地案内板」
                    「長野・山梨の城郭 新人物往来社」
                 「戦国武田の城 有峰書店新社」
訪城回数 1
2008年11月