1444〜49年(文安年間)細川成之が三河国守護の時代、関口経国の子孫、関口刑部少輔満興により築かれ、弟の長沢次郎直幸が守った。 1458年(長禄2)岩津城主松平信光は長沢氏を攻略すると子である親則にこの城を与え、以後親則は長沢松平氏の祖となったといわれる。しかし信光が攻めた長沢城がこの山城なのか、麓に在った古城なのか、それを考証する史料は乏しく、不明である。ただこの地はその後も松平氏と今川氏の争点となっており、両氏のいずれかによって維持されていたものと思われ、現在見られる遺構は1560年(永禄3)桶狭間合戦後、対今川氏の備えとして松平氏(徳川家康)によるものと考えられている。 長沢松平氏8代康忠は家康に従い、各地を転戦した。1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、家康が関東に入国すると、長沢松平氏9代康直は1万石で武蔵国深谷城に入城するが、1593年(文禄2)跡継ぎの無いまま病没した為、家康7男松千代が養子に入り、跡を継いだ。しかし1599年(慶長4)その松千代が僅か6歳で没すると、家康6男辰千代(後の松平忠輝)が跡を継いだ。 1610年(慶長15)忠輝は越後国高田藩に封ぜられ、1616年(元和2)改易となり、長沢松平家の名跡は絶えるが、康忠の系統は存続している。 標高169mの城山山頂に築かれており、旧東海道を北に見下ろす要衝に位置する。山頂の30メートル四方の本丸は西から南にかけてL字型の土塁が築かれ、北隣に土塁で区画して二の丸が設けられている。ここから北・東・南西尾根にいくつもの曲輪を配しており、また城内には雨水を貯めたといわれる井戸跡が5ヶ所残されている。南西に在ったと思われる堀切は駐車場となり、破壊されているが、遺構はほぼ完存しており、中世城郭としては県下でも最大規模を誇る。 |