引田城

引田城ひけたじょう
香川県東かがわ市引田
Mapion
登山口地図

--北の丸石垣--
別名        
交通 JR高徳線「引田駅」から登山口まで徒歩20分。
地図の地点、南西麓から登山道があります。
築城年代 1504〜21年(永正年間)
築城者 四宮氏
形式 山城
主な城主 仙石秀久・十河存保・生駒親正
1504〜21年(永正年間)四宮氏により築かれたとされるが、「南海通記」によると、1467〜69年(応仁年間)寒川氏が領していたとされ、また670年(天智天皇9)瀬戸内烽の一つとして築城された事に始まるともいわれる。
1570年(元亀1)三好長治に攻められ落城すると、長治家臣の矢野駿河守が城主となるが、1579年(天正7)再び落城した。
1582年(天正10)中富川合戦で勝利し、阿波を統一した長宗我部元親は翌年讃岐に侵攻し、十河存保が籠もる虎丸城を包囲した。この時存保の援軍要請を受けた羽柴秀吉は洲本城主仙石秀久を引田城に入れるが、元親に破られ、存保も虎丸城から十河城へ逃れるが、1584年(天正12)十河城も落城し、元親は讃岐も統一した。
1585年(天正13)秀吉の四国征伐後、再び秀久、次いで存保が引田城主となるが、1586年(天正14)戸次川合戦で存保が 討死すると、引田城は一時主を失った。
1587年(天正15)讃岐17万6千石を与えられた生駒親正が入城し、この時改修が行われたが、その後親正は聖通寺城を経て高松城へ移った。親正退去後も引田城は東讃の支城として存続したが、1615年(元和1)一国一城令により廃城となる。
城址は西の丸・南の丸・東の丸・北の丸と大きく4つの曲輪から構成され、それぞれ櫓が設けられていたとされ、至る所に石垣が残されている。特に北の丸西側に築かれた石垣は大規模で見所の一つとなる。
狼煙台跡 西の丸櫓台跡石垣 南の丸
南の丸石垣 東の丸 石段は遺構か
東の丸櫓台跡 東の丸からの眺め 北の丸櫓台跡
北の丸石垣 丹後丸 南西から城址遠望

参考文献 「現地案内板」
         「戦国の城 学研」
                       「香川・徳島・高知の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2015年1月