石脇城

石脇城いしわきじょう
静岡県焼津市石脇下
Mapion

--入口に立つ標柱--
別名     
交通 JR東海道本線「焼津駅」から徒歩30分。
築城年代 1473年(文明5)頃
築城者 伊勢宗瑞(北条早雲・伊勢新九郎盛時)
形式 山城
主な城主 伊勢宗瑞(北条早雲・伊勢新九郎盛時)
1473年(文明5)頃、駿河守護6代今川義忠正室である北川殿の兄伊勢宗瑞(北条早雲・伊勢新九郎盛時)が今川家の客将となり、この地に居住地を与えられて築いたとされる。
1476年(文明8)斯波氏に通じた横地城主横地氏を討った義忠がその帰路、遠州塩買坂で討死すると、今川家で跡目を巡り、内紛が起きた。義忠の子龍王丸(氏親)は幼少であった為、義忠の従兄弟である小鹿範満の家督相続を支持する家臣が多く、両派の対立は激しさを増すばかりであった。また範満の母は堀越御所足利政知重臣である犬懸上杉政憲の娘であった事から政知も兵を出し、更に太田道灌も駿河に入国し、八幡城に布陣した。この時龍王丸(氏親)を支持する伊勢宗瑞は龍王丸成人まで範満が守護職務を代行する事で和義を成立させ、一応今川家内紛に決着を付けると、範満監視の為、八幡城に移った。
八幡城に移った伊勢宗瑞は政情が安定すると再び上洛して将軍の側近となり、申次衆を務めたとされるが、その後龍王丸(氏親)が成人しても範満が家督を返還しなかった為、1487年(長享1)北川殿の要請を受け、再び駿河へ下向し、駿府館を襲撃して範満を破った。その功により富士郡下方12郷を与えられると興国寺城に移った。石脇城は伊勢宗瑞の八幡城または興国寺城移転の時、廃城になったものと考えられる。
高草山から南に延びる支尾根先端、標高30メートルの小丘に築かれている。山頂には大日堂が立ち、背後に僅かに土塁が残されているが、大日堂へ続く石段建設の為、改変されている箇所も多い様である。非常に小規模で、また伊勢宗瑞の在城期間が短かった事から未完成であったと考えられている。
南下から遠望 本丸に建つ大日堂 本丸
本丸下曲輪跡 二の丸に建つ城山八幡宮 北東から城址遠望

参考文献 「現地案内板」
                      「駿遠豆古城歴史紀行 明文出版社」
                         「静岡・愛知・岐阜の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2017年1月