亀山古城

亀山古城かめやまこじょう
三重県亀山市若山町
Mapion

--案内板--
別名 若山城・丹陵城
交通 各線「亀山駅」から徒歩20分。
築城年代 1264年(文永1)
築城者 関実忠
形式 平山城
主な城主 関盛信
1264年(文永1)北条氏被官であった関実忠が久我からこの地に移り、築いたとされ、以後関氏累代の居城となった。
1367年(貞治6)関盛政は領地を5人の子に分け、長男盛澄は沢城を築いて神戸氏を、次男盛門は国府城を築いて国府氏を、三男盛繁は関本家を継ぎ、四男盛宗は鹿伏兎城を築いて鹿伏兎氏を、五男政実は川崎峯城を築いて峯氏を称した。
1557年(弘治3)関氏は近江六角氏と結ぶが、1567年(永禄10)から織田信長が北伊勢に侵攻すると、関氏一族は六角氏から離れて信長に従うようになる。しかし盛信だけは従わず、六角氏滅亡後に降伏するも、1571年(元亀2)長島一向一揆が起こるとこれに通じた。その為盛信は幽閉され、亀山城は神戸信孝に与えられた。
1582年(天正10)信孝が四国攻略を命じられた時、盛信は許され、これに従ったが、本能寺で信長が討たれると、盛信は亀山に戻った。
1583年(天正11)賤ヶ岳合戦の年、亀山城は柴田勝家方に付いた滝川一益に奪われるが、加藤清正・山内一豊・細川忠興らに攻められ落城、盛信の子一政が城主となった。
その後一政は蒲生氏郷の麾下となり、各地を転戦、1590年(天正18)氏郷が会津若松城へ移ると、一政もこれに従って白河へ移った。代わって亀山に入部した岡本宗憲が、亀山城が手狭で荒廃していた為、新たに東南の丘陵に新城を築き直すにあたり廃城になったとされる。
現在地図の地点、亀山市歴史博物館の南に亀山古城の案内板が立つが、亀山古城の位置については諸説あり、定まっていない。現在の亀山城の位置から戦国期のものと思われる堀が見つかっており、あるいは関氏在城の頃には既に現在の亀山城の位置に移っていたとも考えられている。

参考文献 「現地案内板」
                         「三重・奈良・和歌山の城郭 新人物往来社」   
訪城回数 1
2012年10月