国吉城

国吉城くによしじょう
福井県三方郡美浜町佐柿
Mapion

--石垣--
別名 粟屋氏館
交通 JR小浜線「美浜駅」から登山口まで徒歩40分。
国吉城歴史資料館裏手(国吉館跡)から登山道があります。
築城年代 1556年(弘治2)
築城者 粟屋勝久
形式 山城
主な城主 粟屋勝久
1556年(弘治2)若狭武田氏重臣であった粟屋越中守勝久が元々在った古城を修築して築いたとされ、南西山裾の谷間に居館を設けた。
1563年(永禄6)から数年に及ぶ越前朝倉氏との攻防が続くが、落城する事は無く、粟屋勝久の国吉籠城は高く評価されている。1570年(元亀1)4月23日、朝倉攻めの為、若狭入りした織田信長は国吉城に着陣、翌日も城に逗留して勝久の長年の籠城をねぎらったという。25日、信長は国吉城を拠点として手筒山城をその日の内に攻略すると、翌日には金ヶ崎城も落とした。勝久とその子勝家も大いに活躍するが、浅井長政が蜂起した為、信長は撤退した。
1573年(天正1)信長が再び越前に侵攻すると、勝久親子をはじめ若狭衆が先手を務め、一乗谷へ一番乗りを果たしたと伝えられる。
その後も勝久は信長の与力として各地を転戦するが、1582年(天正10)本能寺の変後、場所は不明だが秀吉によって他国へ所領を移され、代わって国吉城には木村重滋(定光)が入城した。重滋は丹後街道が集落を通る様に道筋を替え、佐柿城下町が形成されるが、1595年(文禄4)豊臣秀次事件に連座して自害すると、堀尾・浅野・木下・京極氏と替わって、江戸時代に国吉城は廃城となる。
1634年(寛永11)酒井忠勝は、若狭国東部支配の拠点、又は藩主の領内巡検の休息所として佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)を麓に置くと、その後も敦賀と共に小浜藩東部の政治・経済の中心として繁栄した。
国吉城歴史資料館裏手(国吉館跡)から登山道がある。城址は整備されており、遺構も良く残されている。現在も発掘が継続して行われており、埋もれていた石垣が所々確認出来る。
西から城址遠望 出丸
奥に喰違い虎口が見える
喰違い虎口
石垣 石垣 二の丸
堀切 城址には板碑や墓石が散見されるが
投石用に集められたものだという
本丸
本丸に立つ城址碑 本丸東虎口 本丸背後三重堀切

参考文献 「現地案内板」
                     「図説中世城郭事典 新人物往来社」
                        「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年8月