河尻秀隆屋敷

河尻秀隆屋敷かわじりひでたかやしき
山梨県甲府市岩窪町
Mapion

--河尻塚--
別名 岩窪館
交通 JR中央本線「甲府駅」から徒歩25分。
築城年代 1582年(天正10)
築城者 河尻秀隆
形式 屋敷
主な城主 河尻秀隆
1582年(天正10)織田信長による甲州征伐の際、織田信忠軍の目付として活躍した河尻秀隆屋敷跡。
秀隆は信長の父信秀の頃から従い、1548年(天文17)3月、第二次小豆坂合戦で戦功を挙げた。
信長の代には黒母衣衆の筆頭を務め、1560年(永禄3)桶狭間合戦や堂洞城合戦に従軍、1575年(天正3)長篠合戦では信忠に代わって指揮を執り、同年美濃国岩村城落城後、城将として置かれた。
1582年(天正10)武田氏滅亡後、甲斐・信濃諏訪郡の領主となった秀隆は背後の信長の権力を利用して威圧的な政治を行い、恵林寺に放火する等、横暴を極めるが、僅か2ヵ月後、本能寺の変が起こると、武田家旧臣や農民等の国人一揆により討たれた。これにより甲斐国は一時的に無主地となり、徳川家康と後北条氏が領有を巡り争った。「天正壬午の乱
秀隆が埋葬されたとされる河尻塚付近は屋敷跡とも伝えられている。また河尻塚は秀隆が圧政の恨みを買い、逆さまに埋葬された事から「さかさ塚」の異名がある。
                
参考文献 「現地案内板」
                  「戦国人名事典 新人物往来社」
訪城回数 1
2006年4月