築城者・年代については不明だが、1248年(建長1)〜1410年(応永17)亥鼻城主千葉氏直臣である平河新兵衛入道・平河左衛門四郎・宍倉七郎左衛門入道等が知行しており、この頃に築かれたと考えられる。 1455年(享徳4)5代鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠との対立に始まる享徳の乱が起こり、成氏は将軍の命を受けた駿河国今川範忠に鎌倉を追われると、下総国古河へ移った。1471年(文明3)下総国古河城が長尾景信に攻められ落城すると成氏は本佐倉城主千葉孝胤を頼り、この小篠塚城に動座したとされ、翌年、古河を回復し、帰還した。 1497年(明応6)成氏没後、子である政氏が2代目古河公方となる。千葉氏の中で内紛が続き、やがて古河公方と対立するようになり、1502年(文亀2)から政氏とその子である高基が千葉氏討伐の為、3年間小篠塚城に動座したという。 文献には1504年(永正1)まで記録が残るが、1550年(天文19)頃までは動座城として利用されたと考えられている。 半島状台地の先端に築かれており、西の本丸とその東、土塁と空堀で区画された3つの曲輪(二の丸・出丸(見台)・正慧寺敷地)で構成されている。近年まで雑木に覆われていたが、現在は小篠塚城址園として綺麗に整備されている。 |