久下田城

久下田城くげたじょう
茨城県筑西市樋口
Mapion

--本丸北西空堀--
別名 河連城
交通 真岡鐵道真岡線「久下田駅」から徒歩15分。
築城年代 1545年(天文14)
築城者 水谷正村(蟠龍斎)
形式 平城
主な城主 水谷正村(蟠龍斎)
940年(天慶3)藤原秀郷が平貞盛と呼応し、平将門討伐の為に築いた上館(久下田城)・中館(伊佐城)・下館(下館城)の一つに始まるとされる。
1545年(天文14)下館城主6代水谷正村(蟠龍斎)は宇都宮城主宇都宮氏の来襲に備え、上館跡に久下田城を築いた。築城後、正村は芳賀城主芳賀氏と抗争を繰り返し、田野城攻略後、久下田城は下館城の支城として機能した。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、正村は所領3万1千石を安堵されると、下館城を弟勝俊に譲り、自身は隠居して久下田城に移り、隠居料として1万6千石を与えられた。
1598年(慶長3)6月20日、当城にて正村没後、この地は勝俊に受け継がれ、1615年(元和1)一国一城令により久下田城は廃城同然となり、1639年(寛永16)勝俊の子勝隆が備中国成羽に移封されると完全に廃城となった。
五行川右岸の段丘上に位置する。本丸・二の丸・三の丸から成り、東側は裾を流れる五行川を水堀とし、西及び南側には堀を設け、往時は水堀であったとされる。二の丸・三の丸は畑地や宅地になっているが、本丸は公園となり、周囲に堀や土塁が残されている。西に建つ芳全寺は水谷正村開基で境内に墓所がある。また本堂裏手に土塁が残されており、出丸の役割を持っていたとも考えられる。
二の丸南中堀 二の丸 本丸南西土橋
本丸西空堀 本丸南土塁 本丸
本丸に建つ稲荷神社 本丸北空堀 本丸東下水堀
Mapion
芳全寺
水谷正村(蟠龍斎)墓 芳全寺本堂裏手に残る土塁

参考文献 「とちぎの古城を歩く 下野新聞社」
           「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2022年2月