松倉城

松倉城まつくらじょう
富山県魚津市鹿熊
Mapion

--北西から城址遠望--
別名 鹿熊城・金山城・松蔵城
交通 JR北陸本線「魚津駅」から市民バス「鹿熊」下車。
バス停から城址まで徒歩50分。バス停から67号線を角川ダムま
で進むと、左手に城址案内があります。本丸まで車道が通じ、
その途中には大見城平経由の登山道もあります。
築城年代 南北朝時代
築城者 井上(普門)俊清か
形式 山城
主な城主 椎名康胤・河田長親
築城年代は不明だが、1338年(延元3)越中守護であった井上(普門)俊清が幕府に叛いて南朝方に敗れると、松倉城に籠城したとされ、この頃に築かれたものと考えられる。その後1394〜1428年(応永年間)に松倉金山が発見されたと伝えられ、時代を通じて松倉城は重要視された。
室町時代、畠山氏の守護代として椎名氏が入城し、本城として修築・使用されたと考えられる。
1560年(永禄3)椎名康胤は敵対する富山城主神保長職に松倉城を攻められると、上杉謙信に援軍を要請し、窮地を救われたが、1568年(永禄11)一転武田信玄に通じた為、松倉城や魚津城は謙信に攻められた。この時は越後国村上城主本庄繁長が叛いた為、謙信は引き揚げているが、翌年再び越中に出陣、その後康胤は松倉城を追われ、河田長親が入城すると、松倉城は魚津城と共に上杉方の越中における重要拠点となった。
1582年(天正10)松倉城・魚津城が織田信長方の柴田勝家・佐々成政・前田利家に攻められると、松倉城城兵は魚津城を救う為に来援した上杉景勝と共に撤退したというが、本能寺の変が起こり、織田勢が引き揚げた後、上杉氏が奪還した。しかし翌年松倉城・魚津城は再び佐々成政に攻め落とされ、上杉氏の越中支配が終わった。
1587年(天正15)成政が肥後国に転封されると、代わって前田氏が領有し、1596〜1615年(慶長年間)初期に廃城になったとされる。
守山城・増山城と共に越中三大山城の一つに数えられ、中腹にある「大見城平」まで含めると非常に広大で、遺構も良好に残されている。更に周囲には水尾城・石の門砦・升形城・小菅沼城・北山城等の支城が設けられ、全国でも屈指の規模を誇る。
獄門原
松倉城処刑場跡とされる
狼煙台・四の丸間堀切 狼煙台跡
四の丸東堀切 四の丸 三の丸・四の丸間堀切
本丸下に立つ松倉城主之碑 二の丸 本丸から見る二の丸・本丸間堀切
正面が二の丸虎口
本丸 本丸腰曲輪に残る石積み 本丸から堀切を挟み南西に建つ
八幡堂
本丸北西下にある大見城平へ
通じる門跡
大見城平
家臣屋敷跡と考えられる
大見城平・石の門
本丸から北側の眺め

参考文献 「現地案内板」
                         「新潟・富山・石川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2014年4月