1536年(天文5)越後守護代である長尾為景没後、新川郡に進出した放生津城主神保長職は常願寺川辺までを勢力下に置き、1543年(天文12)頃、松倉城主椎名氏との抗争の中で築いたものと考えられる。文献上の初見は1560年(永禄3)椎名氏の援軍として来援した上杉謙信が長職が籠もる富山城を攻めた記録である。 1561年(永禄4)上杉謙信が攻略し、1572年(元亀3)加賀・越中の一向一揆勢に一時占拠されるが、再び謙信が落とし、上杉方の越中における拠点の一つとなった。 1578年(天正6)謙信没後、富山城を巡り、織田氏と上杉氏との攻防があり、織田氏が奪還すると、佐々成政が入城し、富山城は改修された。 1584年(天正12)小牧・長久手合戦の際、羽柴秀吉方であった成政は、その後優勢であった徳川家康方に呼応し、秀吉派である前田利家が支配する加賀・能登を分断する為に末森城を攻めた。しかし城主奥村永福らの奮戦や前田利家の援軍により成政は撤退した。更に秀吉と家康の和議が成り、前田勢・上杉勢に挟まれた成政は孤立してしまった為、家康を再び挙兵させるべく、真冬の北アルプスを越え、遠江国浜松へ赴いた「さらさら越え」。 しかし家康が立つ事は無く、翌年成政は秀吉の征伐を受ける事となり、富山城は10万の大軍に包囲された。成政は降伏し、その後富山は前田利長に加封され、明治まで前田氏が在城した。 |