魚津城

魚津城うおづじょう
富山県魚津市本町1丁目
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--城址碑--
別名 小津城
交通 富山地方本線「電鉄魚津駅」から徒歩5分。
築城年代 室町時代中期か
築城者 椎名氏か
形式 平城
主な城主 河田長親
築城年代は不明だが、室町時代、畠山氏の守護代として椎名氏が松倉城に入城した後、支城として本格的に築かれたものと考えられる。
1560年(永禄3)椎名康胤は敵対する富山城主神保長職に松倉城を攻められると、上杉謙信に援軍を要請し、窮地を救われたが、1568年(永禄11)突如武田信玄に通じた為、松倉城や魚津城は謙信に攻められた。この時は越後国村上城主本庄繁長が謀反した為、謙信は引き揚げているが、翌年再び越中に出陣、その後康胤は松倉城を追われ、河田長親が入城すると、魚津城は松倉城と共に上杉方の越中における重要拠点となった。
1582年(天正10)3月、魚津城は織田信長方の柴田勝家・佐々成政・前田利家に包囲される。これに対し上杉景勝は魚津城救援の為、5月15日、北東にある天神山城に着陣するが、信濃・上野方面から越後へ侵入する織田勢に備える為、5月26日に松倉城城兵と共に春日山に撤退した。本能寺の変の翌日である6月3日、魚津城は落城、中条景泰・吉江信景・寺島長資ら城将13人は自刃し、城中に籠もった者も一人残らず討たれたという。
信長の死を知らされた織田勢が撤退した後、上杉氏が奪還するが、翌年松倉城・魚津城は再び佐々成政に落とされ、上杉氏の越中支配が終わった。
1587年(天正15)成政が肥後国に転封されると、代わって前田氏が領有し、1638年(寛永15)一国一城令により廃城になったものと考えられるが、その後も加賀藩の米蔵や武器庫として利用され、周囲には奉行所や寺院が置かれた事から新川郡の軍事的・政治的中心として栄えた。
悲壮な落城で知られる著名な城だが、本丸跡には大町小学校が建ち、二の丸跡も裁判所敷地や宅地となっている。明確な遺構は見当たらないが、本丸跡には城址碑や上杉謙信が城外で詠んだという歌碑が立ち、案内板も充実している。
城址に建つ大町小学校 謙信が植えたというときわの松2代目 上杉謙信歌碑
二の丸跡(円乗寺付近) Mapion
華王寺に立つ上杉軍将兵供養塔
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長教寺に立つ魚津奉行所跡碑

参考文献 「現地案内板」
                         「新潟・富山・石川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2014年4月