三宅城

三宅城みやけじょう
大阪府茨木市蔵垣内3丁目
Mapion

--城址碑--
別名        
交通 JR東海道本線「千里丘駅」から徒歩15分。
築城年代 1504年(永正1)
築城者 三宅国政
形式 平城
主な城主 三宅国村
1504年(永正1)三宅国政により築かれたとされるが、1352年(観応3)「室町幕府御教書」に三宅出羽左衛門尉の名が見え、また「応仁記」等に1470年(文明2)東軍総大将で摂津守護であった細川勝元方に属した「三宅・吹田・茨木・芥川等の諸侍」が居た事が記されており、三宅城の起源は更に遡ると考えられる。
1507年(永正4)守護細川政元没後、3人の養子、澄之・澄元・高国が家督をめぐって対立し、「永正の錯乱」と呼ばれる抗争が続いた。三宅氏は高国方に属し、1531年(享禄4)大物合戦で高国敗死後、高国の弟晴国、次いで高国の養子氏綱に従い、細川晴元に抵抗した。しかし1547年(天文16)三宅国村が守る三宅城は晴元方三好長慶・実休(義賢)兄弟率いる3万の大軍に包囲され、国村は開城、降伏した。
1548年(天文17)晴元と長慶が対立するようになると、国村は長慶に従い、三宅城は一時晴元に奪われるが、1549年(天文18)江口合戦後、晴元は近江へ逃れ、再び国村が三宅城に入城した。
1561年(永禄4)5月、長慶は晴元を普門寺に幽閉するが、晴元の子晴之を擁した六角義賢・畠山高政と対立するようになる。翌年久米田合戦後、国村は長慶を裏切り、義賢らに応じて豊島郡に放火するが、続く教興寺合戦後高屋城陥落の報を受けると、三宅城を捨て堺へ逃れたという。この直後三宅城は廃城になったものと思われる。
現在城址一帯は宅地化されており、蔵垣内公園に城址碑、北東住宅地隅に三宅国村碑が立つのみとなる。

参考文献 「現地案内板」
                     「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2017年1月