群馬県富岡市宮崎 --主郭西二重堀切の一つ-- |
別名 | |
交通 | 上信電鉄上信線「神農原駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | 1532〜1555年(天文年間) |
築城者 | 小幡氏 |
形式 | 丘城 |
主な城主 | 小幡氏・奥平信昌 |
1532〜1555年(天文年間)国峰城主小幡氏により西方の支城として築かれたとされ、小幡氏一族が在城した。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、小幡帯刀・庭屋左衛門尉が守ったが、上杉景勝の別動隊、藤田信吉・木戸玄斎・村上国清に攻められ、落城した。戦後、徳川家康の関東入国に伴い、三河国新城城から奥平信昌が3万石で入城した。 1601年(慶長6)3月、信昌が美濃国加納城に移封となると、宮崎城は廃城となった。 丹生川と鏑川に挟まれた丘陵上に位置し、現在富岡西中学校敷地となる。体育館付近が主郭にあたり、内堀を挟んで校舎から校庭付近が二郭、その外側に腰曲輪・外堀が在った。学校建設によりほとんど削平されているが、主郭西側の二重堀切や櫓台跡、腰曲輪が残されている。また西500メートル、尾根伝いに詰城である神成城が築かれており、体育館裏手から登山道が整備されている。 |
二郭 | 北郭・櫓台跡 | 主郭 |
南郭 | 主郭南腰曲輪 | 南から城址遠望 |