麦島城

麦島城むぎしまじょう
熊本県八代市古城町
Mapion
天守台跡地図

--天守台跡に立つ案内板--
別名      
交通 JR鹿児島本線「八代駅」から徒歩30分。
築城年代 1588年(天正16)
築城者 小西行重
形式 平城
主な城主 小西行重
1588年(天正16)宇土・益城・八代・天草の領主となった小西行長は、宇土古城を廃して、新たに宇土城を築いた。また名和氏・相良氏時代の古麓城も廃し、重臣小西行重に命じてこの地に麦島城を築かせた。
1592年(文禄1)6月、梅北一揆が起こると、梅北国兼勢に攻められたが守っている。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦で西軍に属した小西行長は処刑され、麦島城主行重は薩摩へ逃れた。八代は加藤清正が治める事となり、麦島城も支城として城代が置かれた。
1615年(元和1)一国一城令が出されるが、肥後国加藤氏領は例外としてこの麦島城は残された。これは薩摩島津氏や球磨相良氏、また異国の押さえの為であったという。
1619年(元和5)3月、大地震で麦島城は倒壊した為、加藤忠広は麦島城を廃し、翌6年より八代城の築城を開始し、同8年に完成した。
発掘により石垣や小西行長が文禄の役で釜山から持ち帰った滴水瓦(中国の年号、隆慶二年の銘)、また地震により倒壊した平櫓も倒壊した状態で見つかっている。天守台跡付近に堀跡とも思われる低地も見られるが、遺構は現在は埋め戻され、明確ではない。「シルバーワークプラザ八代古城館(二の丸跡)」で発掘された石垣の一部を見る事が出来る。またキリシタン大名小西行長の庇護の下、八代はキリシタン隆盛の地となるが、加藤氏時代、行長旧臣を含む指導者らが捕らえられ、麦島の地で殉教した。本丸北側にはこのキリシタン殉教者碑が立つ。

参考文献 「現地案内板」
                          「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2011年9月