名和氏館

名和氏館なわしやかた
鳥取県西伯郡大山町名和
Mapion

--館跡--
別名   
交通 JR山陰本線「名和駅」から徒歩30分。
築城年代 不明
築城者 名和長年
形式
主な城主 名和長年
南北朝時代、後醍醐天皇の忠臣として活躍した名和長年館跡。長年は初名長高と称し、父行高の代まで伯耆国長田郷に住し、長田氏を称していたが、長年の代にこの地に移り名和氏を称するようになったとされる。名和氏の出自について詳細は不明だが、古くから海運を業とする商人であったと考えられている。
1331年(元弘1)4月29日、鎌倉幕府討伐の計画を吉田定房によって六波羅探題に密告され、失敗に終わった後醍醐天皇は笠置山に潜幸し、抵抗するが捕らえられ、隠岐へ配流された。その後吉野山で護良親王、河内国千早城で楠木正成、播磨国で赤松則村が挙兵すると諸国の反幕府運動が急速に展開する。戦局の転換に乗じ、1333年(元弘3)2月、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆名和湊に上陸した。この時長年は後醍醐天皇を奉じて船上山に立て籠もり、隠岐判官佐々木清高らに勝利した。間も無く船上山追討軍として出陣した足利尊氏(高氏)が丹波国篠村八幡宮で叛旗を翻し、六波羅探題を滅ぼすと、関東では上野国に挙兵した新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は滅亡した。
京都に帰還した後醍醐天皇による建武の親政成立後、長年は千種忠顕・楠木正成・結城親光と共に「三木一草」と呼ばれる功臣として活躍するが、1336年(建武3)新政権から離反した足利尊氏と六条大宮で争い、三男高光と共に討死した。
その後も長男義高は南朝方として足利氏と争うが、1338年(暦応1)石津合戦で討死した。跡を継いだ甥顕興は本国伯耆国を捨て、1334年(建武1)義高が地頭職に任ぜられていた肥後国八代庄に下向し、肥後名和氏の祖となり、菊池氏らと共に九州における南朝方として最後まで抵抗した。
地図の地点、「又太郎屋敷」・「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれる広場が館跡とされ、碑が立てられている。付近には名和氏関連の史跡が点在しており、名和駅北側には後醍醐天皇腰掛岩や御着船所がある。
Mapion
三人五輪
伝名和長年・義高・高光父子首塚
Mapion
氏殿神社
故伯耆守名和君碑
Mapion
的石
名和一族が弓の修練に用いた石
Mapion
名和一族郎党の墓
菩提寺である長綱寺裏山に立つ
Mapion
元弘帝御着船所
Mapion
後醍醐天皇御腰掛岩

参考文献 「現地案内板」
              「歴史群像シリーズ 学研」
訪城回数 1
2017年4月