大阪府大阪市福島区玉川4丁目 --極楽寺・城址碑-- |
別名 | |
交通 | JR大阪環状線「野田駅」から徒歩5分。 |
築城年代 | 1531年(享禄4)頃 |
築城者 | 浦上村宗(掃部) |
形式 | 平城 |
主な城主 | 三好三人衆 |
野田の地は元来、淀川河口の中州が発達したもので、海老州と福島に挟まれた一つの小さな島であったものが、次第に陸続きになっていったものと考えられている。 1532年(享禄4)3月、細川晴元・三好元長と細川高国・浦上村宗(掃部)が争った中嶋合戦の際、村宗(掃部)の軍勢が野田・福島に入り、6月まで陣地としており、その後1532年(享禄5)頃から晴元と元長が対立し、6月20日、敗れた元長が堺で自害するに至った合戦の時までに野田城の原形が築かれたと思われる。 1570年(元亀1)7月、織田信長と対立する三好三人衆らは畿内での勢力回復を図るべく1万3千の兵を率い、阿波国から泉州に上陸、27日天満森に布陣し、野田・福島の砦を修築して入城した。8月26日、信長・松永久秀・三好義継・和田惟政らは天王寺に布陣し、楼岸・川口に砦を築く等、野田・福島両城を包囲した。9月2日、信長の要請を受けた足利義昭が2千の兵を率いて堀城に入城した。同月8日、天満森に本陣を進めた信長は同月20日、義昭と共に野田・福島両城の目前である浦江城に入城し、大勢は決したかに見えた。しかし同日夜半、突如石山本願寺が蜂起し、楼岸・川口の砦に鉄砲を撃ちかけると、同月14日、信長方天満森陣を攻めた。同月20日には榎並陣を攻め、将軍直臣である野村越中守が討たれる等、苦しい立場に追い込まれた信長は野田・福島方面から撤退を余儀無くされ、天満森に退いた。そして同月23日、近江国宇佐山城の戦況を受け、摂津国から撤退した。 1576年(天正4)信長勢に攻められ、野田・福島は陥落し、その後木津海戦等では信長の重要陣地となった。 野田城の位置について詳細は不明だが、玉川4丁目付近と考えられており、野田・玉川駅前と極楽寺前に城址碑が立つ。また一体として機能していたと考えられる福島の砦の位置も判然としない。 |
城址碑 |
極楽寺 | 極楽寺に隣接する恵美須神社 |