大高坂城

大高坂城おおたかさじょう
高知県高知市丸ノ内1丁目
Mapion

-高知城三の丸・長宗我部期石垣-
別名 のち高知城
交通 土佐電鉄伊野線「高知城前駅」下車他。
築城年代 南北朝時代
築城者 大高坂松王丸
形式 平山城
主な城主 長宗我部元親
南北朝時代、大高坂松王丸がこの地に砦を築き、南朝方として戦ったという記録が残る。当時の土佐は足利尊氏重臣である細川氏の支配下にあり、北朝方が優勢であったが、1338年(暦応1)後醍醐天皇の皇子花園宮満良親王が新田綿打入道・金沢左近将監らを率いて入国すると南朝方は一時勢力を盛り返した。そこで北朝方は升形付近に在ったという安楽寺に砦を築いて大高坂城攻めを繰り返し行った。新田・金沢らは花園宮を奉じて潮江山(筆山)に布陣し、大高坂城を救援しようとするが、1340年(暦応3)大高坂城は落城、大高坂松王丸は西城戸付近で討死し、花園宮は西国へ逃れたという。その後の大高坂城については史料が無く不明な点が多いが、戦国時代に入り、大高坂氏は長宗我部氏に属している。
1586年(天正14)戸次川合戦で長男信親を亡くした長宗我部元親は、以後領国経営に力を入れ、1588年(天正16)岡豊城からこの大高坂城に居城を移した。しかし城下は低湿地の為に水害に悩まされ、僅か3年程で再び居城を浦戸城へ移している。
1601年(慶長6)関ヶ原合戦後に土佐国20万2千6百石を与えられた山内一豊がこの地に高知城を築城をした事により城下町が完成した。
長宗我部氏在城時の大高坂城の規模については不明だが、高知城三の丸に長宗我部期の出土した石垣が展示されている。
大高坂松王丸碑・大高坂神社跡 升形古戦場

参考文献 「現地案内板」
                        「香川・徳島・高知の城郭 新人物往来社」
訪城回数 2
2012年10月
2017年1月