1394〜1428年(応永年間)大津山氏により築かれたと伝えられ、代々大津山氏居城として続いた。 1550年(天文19)豊後国大友義鑑は菊池義武の最後の抵抗を鎮圧すると、義武に与した筑南・北肥の国衆に対処する為、小原鑑元を城代として置いたが、1556年(弘治2)鑑元は叛意があるとして討たれ、大津山氏が復帰した。しかし1578年(天正6)〜1581年(天正9)頃、肥前国龍造寺隆信の肥後北部進出に伴い、龍造寺氏の支配下に在ったといわれる。 1584年(天正12)沖田畷合戦後、龍造寺氏の肥後国への影響力が弱まると、再び大津山氏が城主となる。その後島津氏の勢力が北肥に及ぶと筒ヶ岳城主小代氏と共に大津山氏も島津氏の支配下に入るが、1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐の際、城を明け渡し、所領を安堵された。しかし肥後一国を与えられた佐々成政が隈本城に入城し、その後肥後国人一揆が起こると大津山氏も一揆に加担し、滅亡した。 成政に代わって加藤清正が北肥後に入封すると、加藤正次が城代として筒ヶ岳城より移るが、1600年慶長5)鷹ノ原城を築いて移ると廃城となった。 標高256メートル、大津山山頂に築かれている。西麓に建つ大津山阿蘇神社から登山道を登ると麓付近まで降る竪堀がいくつか確認出来る。礎石や石積みが残る本丸の北東尾根筋には4つの堀切が設けられており、それぞれ資基橋・家稜橋・新蔵橋・鑑元橋と大津山城に関連する人物の名が付けられた木橋が架けられている。 |