愛知県刈谷市銀座6丁目 --屋敷址碑-- |
別名 | |
交通 | 名鉄三河線「刈谷市駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | |
築城者 | |
形式 | 屋敷 |
主な城主 | 於大の方 |
刈谷城主水野忠政の娘で、徳川家康の生母である於大が一時住んだといわれる。 1541年(天文10)14歳の於大は岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、翌年竹千代(後の松平元康・徳川家康)が誕生した。しかし1543年(天文12)父忠政が亡くなると、跡を継いだ於大の兄信元は織田氏に属した。その為、今川氏に属す広忠から離別されると、刈谷城から谷を挟み北東に位置するこの高台に住んだという。その後於大は信元の政略により阿古居城主久松俊勝と再婚し、3男4女を儲けた。 1560年(永禄3)桶狭間合戦後、今川氏から自立した家康は俊勝と異父弟らに松平姓を許し、於大を母として迎えた。 1602年(慶長7)於大は家康に山城伏見城へ招かれ、同年8月28日、75歳で亡くなった。 椎の木屋敷というが、この高台付近一帯を指し、椎の木藪ともいわれた。現在は公園となり、於大の方由緒の地碑や像が立てられている。 |