刈谷城

刈谷城かりやじょう
愛知県刈谷市城町1丁目
Mapion

--本丸跡碑--
別名 亀城
交通 名鉄三河線「刈谷市駅」から徒歩10分。
築城年代 1533年(天文2)
築城者 水野忠政
形式 平山城
主な城主 水野氏
1533年(天文2)緒川城主水野忠政により築かれ、水野氏本城とすると、緒川城には子信元が置かれた。
1541年(天文10)忠政は娘である於大を岡崎城主松平広忠に嫁がせ、翌年竹千代(後の松平元康・徳川家康)が誕生した。しかし1543年(天文12)忠政が亡くなると、跡を継いだ信元は織田氏に属した。その為、今川氏に属す広忠から離別された於大は刈谷城近くの椎の木屋敷に住み、その後阿古居城主久松俊勝と再婚した。
1560年(永禄3)桶狭間合戦の際、信元は大高城に居た松平元康を岡崎に帰る手引きをした。また刈谷城には信元弟である信近が守っていたが、今川義元討死後も鳴海城に踏み留まっていた岡部元信に攻められ、信近は討死した。
その後も信元は織田氏に従い各地を転戦するが、1575年(天正3)佐久間信盛の讒言により甲斐武田氏に内通したとして討たれる。刈谷城はしばらく信盛の持城となるが、その後信元弟である忠重に返され、水野家を継いだ。
その後忠重は豊臣秀吉に従い、1590年(天正18)伊勢神戸城に移り、1594年(文禄3)再び刈谷に復帰、秀吉死後は家康に従った。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、開戦間近の7月、忠重が石田三成が放ったといわれる刺客に討たれると、子勝成が跡を継いだ。
1615年(元和1)大坂夏の陣で活躍した勝成が6万石で大和郡山城へ移った後、刈谷城には弟忠清が入城し、1632年(寛永9)吉田城へ移ると、忠政以来、100年続いた水野氏居城としての歴史は終わった。
水野氏の後、刈谷城は松平・稲垣・阿部・本多・三浦氏と続き、1747年(延享4)西尾城から土井利信が入城すると、明治に至るまで土井氏が在城した。
本丸は亀城公園となり、城池(水堀跡)を挟み、東に二の丸・三の丸(亀城小学校)と続くが、一帯は大きく改変されている。城町交差点北側に城址碑・二の丸跡碑が立ち、亀城小学校南を通る道沿いに大手門跡・三の丸跡碑が立つ。また城町図書館付近は土井氏時代の藩校、文礼館跡で碑・案内碑が設置されている。
藩校・文礼館跡 二の丸跡に立つ城址碑 水堀跡である城池

参考文献 「現地案内板」
                         「静岡・愛知・岐阜の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2016年4月