茨城県下妻市本城町2丁目 --城址碑-- |
別名 | 多賀谷城 |
交通 | 関東鉄道常総線「下妻駅」から徒歩5分。 |
築城年代 | 1460〜66年(寛正年間) |
築城者 | 多賀谷氏家 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 多賀谷氏 |
武蔵国多賀谷郷の多賀谷家政を祖とする多賀谷氏7代140余年の居城。 1441年(嘉吉1)結城合戦の際、多賀谷氏家は結城氏に従い、結城城落城後は再興に尽力した。そして1454年(享徳3)古河公方足利成氏の命で上杉憲忠を討つと、その功績により常陸国関荘三十三郷を与えられ、この地に築城を開始、1462年(寛正3)完成したといわれる。 その後多賀谷氏はここを拠点とし、主家結城氏をも凌ぐ程に勢力を拡大した。やがて多賀谷政経は結城氏からの自立を図り、佐竹氏と結んで関東に勢力を伸ばす後北条氏に対して徹底抗戦する。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めに参陣した多賀谷重経は所領を安堵されるが、1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、西軍に通じた為、徐封となる。重経の養子である佐竹義重4男宣家は兄義宣に従い、出羽国へ、重経嫡男である三経は結城秀康に従い、越前国へ移った。 代わって下妻には徳川家康11男である徳川頼房が入り、1609年(慶長14)水戸城に移ると一時天領となる。その後松平忠昌、松平定綱を経て再び天領となり、1712年(正徳2)井上正長が1万石で入封すると、明治に至るまで陣屋支配が行われた。 下妻城は東は小貝川、西に鬼怒川、北に大宝沼と、天然の要害に囲まれた堅固な城であったというが、現在一帯は市街地化され、遺構のほとんどは消滅している。三の丸跡に建つ法泉寺には1601年(慶長6)2月17日、城明け渡しの際、主家没落を嘆いて自害した奥方・姫君・腰元らを葬り、供養したものという美女塚が在る。 |
多賀谷城跡公園 | 本丸跡標柱・案内板 | 城址碑 |
法泉寺・美女塚 |
妙円寺・下妻藩井上氏累代墓 |
城山稲荷神社・土塁 |