1571年(元亀2)8月 荒木村重・中川清秀×和田惟政・茨木重朝 --古戦場案内板-- |
交通 | JR東海道本線「茨木駅」から徒歩40分。 |
1568年(永禄11)織田信長が上洛する頃、摂津国は池田城主池田勝正・茨木城主茨木重朝・伊丹城主伊丹親興の3氏が対立していた。その後茨木方を支持する高槻城主和田伊賀守惟政と池田方の荒木摂津守村重・中川清秀ら池田二十一人衆との対立となり、1571年(元亀2)8月、白井河原で両軍は激突した。 この時和田勢500余騎、池田勢2500余騎であった。和田軍は戦列を整えようと時間稼ぎを試みるが、その計略が見破られた為、惟政は後続を待たずに僅か200余騎で突撃し討死した。主君を討たれた和田・茨木の郎党達も切って出て討死し、「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる」程赤い血に染まったという。 この合戦の結果茨木氏は滅び、惟政の跡を継いだ惟長も、高山飛騨守・右近父子に滅ぼされた。一方中川清秀は茨木城に入城し、荒木村重は伊丹氏を攻め滅ぼし、摂津の新守護となる。 摂津で有力であった池田氏・伊丹氏・茨木氏・和田氏が相次いで没落し、代わって荒木村重や中川清秀、高山右近が台頭していく契機となる合戦であった。 |