末森城

末森城すえもりじょう
石川県羽咋郡宝達志水町南吉田
Mapion

--城址入口--
別名 末守城
交通 JR七尾線「宝達駅」から登山口まで徒歩25分。
築城年代     
築城者 土肥親真か
形式 山城
主な城主 土肥親真・奥村永福
この地は宝達山系と海岸線が最も狭まった地形で、古くから加賀・能登・越中へ通じる交通の要衝であった。築城者・年代等は不明だが、1553年(天文22)には七尾城主畠山氏の家臣土肥親真が城主であったとされる。親真はその後上杉謙信に従い、次いで前田利家に従って、1583年(天正11)賤ヶ岳合戦で討死している。
1584年(天正12)小牧・長久手合戦の際、越中国富山城にいた佐々成政は、はじめ羽柴秀吉方であったが、その後優勢であった徳川家康方に呼応し、秀吉派である前田利家が支配する加賀・能登を分断する為に末森城を攻めた。しかし城主奥村永福らの奮戦や前田利家の援軍により成政は撤退した。更に秀吉と家康の和議が成り、前田勢・上杉勢に挟まれた成政は孤立してしまう。
12月、成政は家康を再び挙兵させるべく、真冬の北アルプスを越え、遠江国浜松へ赴いた「さらさら越え」。しかし家康が立つ事は無く、翌年成政は秀吉の征伐を受ける事となった。
入口に立つ末森山古戦場碑 空堀 若宮丸
空堀 大手門跡 二の丸
本丸 本丸下曲輪 南から城址遠望

参考文献  「現地案内板」
                         「新潟・富山・石川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2007年5月