大阪府東大阪市若江北町3丁目 --城址碑-- |
別名 | |
交通 | 近鉄奈良線「若江岩田駅」から徒歩15分。 |
築城年代 | 1390〜1428年(明徳・応永年間) |
築城者 | 畠山基国 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 三好義継 |
1390〜1428年(明徳・応永年間)高屋城を本拠とする守護畠山基国により築かれたと推定され、代々守護代遊佐氏を置き、領国守護にあたらせたとされる。 1455年(享徳4)畠山持国が亡くなると、畠山家の内紛は益々激化し、政長と義就両者は若江城の争奪を繰り返す。やがて中央政界の権力闘争に繋がり、1467年(応仁1)御霊林合戦に始まる応仁の乱の発端となる。 1477年(文明9)義就は河内に兵を引き、中央の戦乱は終結するが、なお義就・政長は河内・大和で争った。その中で若江城は義就が領したが、その後の推移は明らかではない。 1560年(永禄3)三好長慶が高屋城・飯盛山城を攻め、畠山高政を追い、河内を手中にすると、若江城もその支配下に入った。 1568年(永禄11)織田信長が足利義昭を擁して入京し、摂河から三好三人衆を追うと、三好義継は信長に従い、河内国北半分を領し、南半分は高屋城の畠山昭高に与えられた。しかしその後信長と義昭が対立するようになると、義継は義昭の妹婿であった為、義昭に与する。1573年(天正1)義継は槇島城で敗れた義昭を庇護するが、その為若江城は信長に攻められた。この時義継の老臣の一人であった池田丹後守教正は、野間・多羅尾氏と共に信長に内応し、義継は自害して果て、三好宗家は滅亡した。 以後若江城は教正が城主となり、織田方の石山本願寺攻めの重要拠点となる。その後教正は八尾城に居城を移し、若江城は廃城になったと考えられる 若江小・若江公民分館付近が城址とされるが、遺構は残されていない。 |