1577年(天正5)9月23日 上杉謙信×柴田勝家 --古戦場碑-- |
交通 | JR北陸本線「小舞子駅」から徒歩15分。 |
1577年(天正5)織田信長に追放された足利義昭に請われ、上杉謙信は石山本願寺・毛利氏と呼応し、7月能登に侵攻する。この頃七尾城は畠山春王丸の病死で城兵の士気も落ちており、重臣長続連・綱連父子は連龍を近江国安土城へ送り、信長に援軍を要請した。しかし9月15日、上杉軍に取り囲まれた七尾城内で遊佐続光・温井景隆らが内応し、親織田派の長氏一族を討ち果たし、七尾城はその日の内に上杉方の手に落ちた。 七尾城を攻略した謙信は末森城も落とし、加賀を南下した。 一方信長は七尾城救援の為、羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀らを派遣し、8月8日増強された柴田勝家率いる北陸方面軍は越前国北ノ庄城を出陣した。織田勢は謙信と結ぶ一向一揆勢を攻めながら、加賀を北上するが、この時軍議で勝家と衝突した秀吉は戦線を離脱している。9月18日、織田勢は手取川を渡り布陣した。しかし23日、七尾城が落ちた事を知り、織田勢は撤退を開始するが、夜陰謙信に追撃され、雨で増水した手取川に追い落とされる兵も多く、1千人近い戦死者を出し敗走した。 呉竹文庫敷地内に立つ古戦場碑には「上杉に逢ふては 織田も名取川 跳ねる謙信 逃るとぶ長」と、当時流行ったという京童の歌が刻まれている。この合戦を伝える史料は少なく、不明な点も多いが、それほど目立った合戦ではなかったと考えられている。 |