山形県鶴岡市馬場町 --城址碑-- |
別名 | 大宝寺城・大梵寺城 |
交通 | JR羽越本線「鶴岡駅」から徒歩25分。 |
築城年代 | 1622年(元和8) |
築城者 | 酒井忠勝 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 酒井氏 |
鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城と呼ばれ、鎌倉時代に武藤景頼が築いて以来、戦国時代まで武藤氏居城として続いた。しかしこの大宝寺城の位置については後の鶴ヶ岡城本丸の位置とも、他の場所にあったともいわれ、定かでない。 武藤氏は庄内地方において卓越した勢力を誇るが、やがて一族である砂越氏と対立するようになり、1532年(天文1)武藤晴時の頃、大宝寺城が兵火に焼かれた為、尾浦城に本拠を移した。そして大宝寺城は尾浦城の支城の役割を果たす事になった。 1587年(天正15)武藤氏が滅び、庄内地方は上杉景勝が領有し、次いで1600年(慶長5)慶長出羽合戦後には、最上義光の領有する所となる。義光は庄内統治の本拠、また隠居城として大宝寺城を整備し、改修が終わった1603年(慶長8)東禅寺城を「亀ヶ崎城」と改称すると同時に、この大宝寺城は亀に対する鶴にちなみ「鶴ヶ岡城」と改称した。 1622年(元和8)御家騒動により最上氏が改易となり、信濃国松代城から酒井忠勝が入部すると、鶴ヶ岡城は庄内14万石の居城として本格的な整備改修が行われ、以後明治に至るまで酒井氏が在城した。 現在城址は鶴岡公園として整備され、土塁や水堀が残されている。三の丸には1805年(文化2)酒井氏9代忠徳が設立した藩校致道館が建ち、公開されている。 |
二の丸北側 | 二の丸大手門跡 | 本丸内北門跡 |
本丸御殿玄関跡 | 本丸御殿跡に建つ荘内神社 | 二の丸西堀 |
本丸中門跡に建つ大宝館 | 本丸南堀 | 二の丸御隅櫓石垣跡 |