尾浦城

尾浦城おうらじょう
山形県鶴岡市大山3丁目
Mapion

--尾浦城主武藤家碑--
別名 大山城
交通 JR羽越本線「羽前大山駅」から徒歩25分。
築城年代 1532〜55年(天文年間)
築城者 武藤晴時
形式 山城
主な城主 武藤氏・下吉忠
尾浦城の創建は鎌倉時代初期まで遡ると伝えられるが、1532年(天文1)庄内地方に勢威を振るった武藤氏晴時の頃、一族である砂越氏との抗争の中、それまでの居城であった大宝寺城が兵火に焼かれた為、この尾浦城に本拠を移した。
1583年(天正11)武藤義氏は嗣子が無かった為、村上城主本庄繁長の二男千勝(義勝)を跡目とするが、これに反発した一門である東禅寺城主東禅寺義長は、庄内掌握を目論む山形城主最上義光と結んで、尾浦城を攻め、義氏を自刃させると、庄内は義光の仕置きとなった。この時尾浦城には義氏の弟丸岡義興が入城するが、その後内紛が起こり、1587年(天正15)尾浦城は再び義光・義長に攻められ、武藤氏は滅亡した。
1588年(天正16)上杉景勝を後盾とする本庄繁長が庄内に侵入し、尾浦城に迫った為、東禅寺義長は城を出て東に広がる十五里ヶ原で本庄軍と決戦するが、東禅寺方は敗れ、義長も討死すると、先に武藤家の養子となっていた繁長の二男義勝が武藤家を再興し、庄内は上杉・本庄方の手に落ちた。
1600年(慶長5)慶長出羽合戦後、庄内に攻め込んだ最上義光により尾浦城は落城し、翌年庄内が再び最上領になると、尾浦城は整備され、「大山城」と改称された。
1615年(元和1)一国一城令により大山城は廃城、居館部を残すのみとなるが、1622年(元和8)御家騒動による最上氏改易後、酒井忠勝が入部した後も、酒井氏の分家や代官が置かれたという。
現在城址は大山公園として整備されている。改変されている箇所も多いと思われるが、城の形状は比較的良く残されており、本丸付近には土塁や堀が確認出来る。
本丸(太平山)に建つ三吉神社 本丸土塁 本丸に立つ武藤氏碑
穀物蔵跡 本丸東曲輪 東曲輪下、腰曲輪
本丸・二の丸間堀切に架かる太古橋 二の丸(八幡台・隠居所跡) 鳥打山(旭台)
城址から北側の眺め
下池奥に見える高い山は高館山で、背後を守る山城であったという

参考文献 「現地案内板」
                        「山形・宮城・福島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年9月