釣島・箱崎浦古戦場

釣島・箱崎浦古戦場
広島県尾道市因島土生町

1377年(天授3)11月15日
村上師清×今岡通任
Mapion

--古戦場跡標柱--
交通 しまなみ海道「因島南IC」。
南朝方、伊予村上氏7代村上義弘が没すると、姉婿(妹婿とも)である今岡通任がその跡を受け継ぎ、越智大島から因島に進出、島前城に本拠を構え、北朝方へ転身した。
瀬戸内の南朝方が勢力を失いつつあった中、長慶天皇の綸旨を受けた村上師清は信濃国埴科郡坂城から瀬戸内へ下向した。1377年(天授3)3月、紀州雑賀港を出立した師清は讃岐塩飽島へ渡り、塩飽光盛を破ると、次いで備中神島を征服して稲住氏を味方にした。そして更に西進して能島へ進出、村上義弘の遺臣達を集め、服従を拒否した今岡通任と鶴島沖、箱崎浦海域で衝突した。この海戦に勝利した師清は因島に上陸し、戦線は中庄や三庄等、各地に拡大し、今岡方の名のある部将は次々と討死、師清は今岡勢を破り、義弘の名跡を継いだ。
この村上師清が能島・来島・因島の三島村上氏の祖となる。(後期村上氏)
今岡氏を因島から追った師清は、三男顕長(吉豊)を長崎城に置くと、自身は能島へ退去した。その後長男義顕(吉顕)が能島、次男顕忠(吉房)が来島に分立し、三島村上氏は同属関係を持ちつつ、外部環境に影響されながら独自の活動を行い、それぞれの地域で勢力を確保した。

この合戦の年代については霜月15日との伝承だけで、天授5年以降という説もある。また村上氏の出自についても諸説あり、明らかではない。

参考文献  「村上水軍全紀行 新人物往来社」
2010年10月