広島県尾道市因島土生町 --西から城址遠望-- |
別名 | |
交通 | しまなみ海道「因島南IC」。 |
築城年代 | 1390年(明徳1)頃か |
築城者 | 村上顕長(吉豊) |
形式 | 水軍城(丘城) |
主な城主 | 村上吉充 |
1377年(天授3)釣島・箱崎浦合戦に勝利した村上師清は、1390年(明徳1)頃、三男顕長(吉豊)を長崎城に置き、自身は木ノ浦の領家職として伯方島へ移った。因島北部は北朝方小早川氏や杉原氏が領有しており、この長崎城はいわば橋頭堡というべき城であったと思われる。 1419年(応永26)頃、師清の跡を継いだ長男義顕(吉顕)は能島、次男顕忠(吉房)は来島に分立し、以後三島村上氏は同属関係を持ちつつ、外部環境に影響されながら独自の活動を行い、それぞれの地域で勢力を確保した。 1427年(応永34)10月、播磨国赤松満祐が将軍家に背いた時、顕長は備後守護山名時熙の呼び掛けに応じて討伐軍に加わり、翌年備後国田島の地頭職を与えられた。また1434年(永享6)幕府より遣明船等の海上警固を命じられている。 1544年(天文13)5代尚吉は大内義隆から備後鞆浦の地を与えられると、三男亮康を大可島城に入れた。1576年(天正4)織田信長に追放された足利義昭が毛利氏を頼り、鞆浦へ来ると亮康はこれを迎えて警固している。また尚吉の頃、小早川隆景や賀儀城主乃美(浦)宗勝の指揮下に入り、小早川水軍の一翼を担うようになったとみられる。 1555年(天文24)6代吉充は厳島合戦で毛利氏の勝利に貢献、1557年(弘治3)備後向島一円の領有を許されると余崎城を築いて移り、更に1567年(永禄10)青木城に居城を移している。代わって長崎城は一族の村上吉之が入城したと伝えられる。 1576年(天正4)第一次木津川口合戦の際、吉充は因島水軍を率い、能島・来島村上氏と共に火矢戦法により九鬼嘉隆を総大将とする織田水軍に大勝、毛利軍の石山本願寺への兵糧搬入に貢献した。しかし1578年(天正6)第二次木津川口合戦では鉄甲船を用いた嘉隆率いる織田水軍に敗れている。 1582年(天正10)織田信長による中国攻めの際、羽柴秀吉は三島村上氏に勧降工作を行い、因島・能島村上氏は毛利方に留まるが、来島村上氏は織田方に転じた為、来島城を攻め、通総を羽柴秀吉の下へ追った。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、吉充は毛利輝元より東軍加藤嘉明の居城である松前城攻めを命じられた。吉充は7代吉亮が病死した事から弟吉忠を名代として出陣させる。吉忠は一族郎党を率いて能島村上元吉の指揮下に入るが、三津浜合戦に敗れ、討死した。関ヶ原合戦後、吉充は転封となった毛利氏に従い、長門国豊浦郡矢田間に2千8百石を与えられるが、家臣達は四散したとされる。やがて吉充は所領を返上すると因島に戻り、そこで没した。8代元充は周防国三田尻で船手組番頭となり、明治に至るまで代々世襲した。 現在城址はホテル敷地となり、大きく改変されているが、案内板によると海岸に面した岩盤にピット跡が残るという。またかつては海に浮かぶ小島であったが、現在は背後の浅間山尾根と地続きになっている。この尾根の先端部には控えの城(甲ノ丸)である荒神山城があった。 |