能島城

能島城のしまじょう
愛媛県今治市宮窪町宮窪
Mapion

--南西から能島遠望・後方に鵜島--
別名     
交通 しまなみ海道「大島北IC」。
築城年代 1419年(応永26)頃
築城者 村上義顕または雅房
形式 海城
主な城主 村上武吉・元吉
1419年(応永26)頃、伯方城を大根城とした村上師清の跡を長男義顕(吉顕)、次男顕忠(吉房)、三男顕長(吉豊)の3子(師清の弟義信の子義胤の3子とも)が相続し、それぞれ能島・来島因島3家に分立した頃に築かれたと考えられる(2代雅房の頃?)。以後三島村上氏は同属関係を持ちつつ、外部環境に影響されながら独自の活動を行い、それぞれの地域で勢力を確保した。
1555年(天文24)5代村上武吉は厳島合戦で毛利氏の勝利に貢献、その後も毛利・大友氏との抗争において親毛利の立場で1561年(永禄4)豊前国蓑島合戦、1569年(永禄12)田原沖合戦等で活躍するが、1571年(元亀2)頃より大友・尼子・浦上氏ら諸勢力と結び、毛利氏と対立するようになる。その為小早川・因島村上・来島村上氏に攻められるが、1572年(元亀3)毛利氏と浦上・宇喜多氏との間で和睦が成立すると、再び両者の関係は修復され、1576年(天正4)第一次木津川口合戦の際、嫡男元吉が武吉の名代として出陣し、因島・来島村上氏と共に火矢戦法により九鬼嘉隆を総大将とする織田水軍に大勝、毛利軍の石山本願寺への兵糧搬入に貢献した。しかし1578年(天正6)第二次木津川口合戦では鉄甲船を用いた嘉隆率いる織田水軍に敗れている。
1582年(天正10)頃、来島村上通総が織田方に転じた為、武吉は因島村上氏と共に通総を攻め、羽柴秀吉の下へ追うが、間も無く秀吉と毛利輝元との間で和睦が成立すると、通総は秀吉の後盾を得て来島城に復帰する。1585年(天正13)秀吉による四国攻めの際、武吉は従わなかった為、能島城は小早川隆景に攻められた。武吉は全軍を挙げて反撃するが、隆景は麦藁を積み込んだ大量の小船に火をつけて潮に流し、能島は火に包まれ落城したという。武吉・元吉父子は能島を退去させられ、隆景領である安芸国竹原へ移される事となった。
1588年(天正16)秀吉による海賊停止令が出されると筑前国へ転封となった隆景に従い、筑前加布里・豊前蓑島・長門大津等を点々とする。1592年(文禄1)から始まる朝鮮の役において元吉は弟景親と共に毛利氏に従軍し、1598年(慶長3)秀吉が亡くなると、再び毛利氏支配下の竹原へ戻った。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、元吉は毛利輝元より東軍加藤嘉明の居城である松前城攻めを命じられるが、三津浜合戦で討死した。元吉を亡くした武吉は遺児元武を連れ、鎮海山城から周防大島へ移り、同地で没した。また元武と景親は分家して長州藩御船手組となった。

島への定期便は無いが、能島周辺を周る潮流体験の観光船があり、また桜のシーズンに船が出るようである。
能島 鯛崎島・出丸 対岸にある水場跡案内板
対岸の谷戸は能島時代の水取場で
毎日能島に運んでいたという

参考文献 「村上水軍のすべて 新人物往来社」
                    「愛媛県中世城館跡分布調査報告書 愛媛県教育委員会」
          「大分・宮崎・愛媛の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2010年10月