元々この山頂には811年(弘仁2)弘法大師の弟子真然僧都創建の中道寺と号する山岳寺院があったが、1384〜87年(至徳年間)志方荘を賜った赤松円心則村の4男氏則が城郭として利用したといわれる。 続いて赤松満政の3男で善坊山城主孝橋氏の跡を継いだ孝橋繁広の名が中道子山城主として文献に現れるが、1441年(嘉吉1)嘉吉の乱で赤松宗家が滅びると、繁広も中道子山城を失ったものと考えられている。しかしその後1467年(応仁1)応仁の乱に際し、主家再興を願う赤松政則は山名氏と戦い、その後西播磨を回復すると、置塩城を築いて居城とするが、これに従軍した繁広の子繁景も中道子山城に復帰したとされる。 その後赤松宗家は重臣浦上氏の台頭もあり、徐々に衰退し、播磨は龍野城主赤松
氏、御着城主小寺氏、三木城主別所氏、そして東播磨を支配下に置いた三好氏が割拠する状態となるが、中道子山城主孝橋氏は赤松宗家に従い各地を転戦したとされる。やがて孝橋氏は秀時の時、居城を浅瀬山城に移し、中道子山城には城代を置いたといわれる。 1573〜92年(天正年間)羽柴秀吉に攻められ落城したと伝えられるが、その後の中道子山城については不明。 発掘調査により焼土層や埋没した石垣が発見されており、1528〜31年(享禄年間)以前、既に石垣を用いた城郭が存在し、その後孝橋氏により再構築されたものと考えられている。そして天正年間の遺物がほとんど見つかっていない事から秀吉に攻められたという伝承は疑問視され、今日見られる遺構は孝橋氏のものとして、近世城郭へ移る過渡期の姿を見せる貴重な城址とされている。 |