神奈川県三浦市三崎町小網代 --油壷湾・城址遠望-- |
別名 | |
交通 | 京急久里浜線「三崎口駅」からバス「油壷」下車。 |
築城年代 | 鎌倉時代後期か |
築城者 | |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 三浦義同 |
築城年代・築城者共に明らかではないが、平安時代後期以降、衣笠城を本拠として三浦半島を支配下とし、鎌倉幕府の要職を占めていた三浦一族が、1247年(宝治1)宝治合戦で滅亡した後、三浦介を継いだ佐原城主佐原盛時により築かれたという説がある。 1494年(明応3)養父で新井城主の時高を討ち、三浦家を継いだ陸奥守義同(道寸)は、1511年(永正8)長男義意を新井城に置き、自分は平塚の岡崎城に入り、勢力の拡大を図る。 その一方1495年(明応4)大森藤頼を追い、小田原城に入った伊勢宗瑞(北条早雲・伊勢新九郎盛時)もまた関東への勢力拡大を図っており、両者は争う事となる。 1512年(永正9)8月、伊勢宗瑞は岡崎城を攻め落とし、義同は三浦半島の入口にあたる住吉城に逃れるが、追撃してきた伊勢宗瑞に落とされ、義同は一時大崩で支える。しかしここも破れ、新井城に義意と共に籠もった。 伊勢宗瑞は三方を海に囲まれる堅固な新井城を力攻めで落とす事が出来ず、持久戦に持ち込み、扇谷上杉朝興率いる武蔵方面からの新井城援軍を断ち切る為、玉縄城を築いた。 1516年(永正13)兵糧の尽きた義同・義意父子は、城門を開き討って出た後、自刃した。この時他の将兵も討死、または湾に投身し、湾一面が血汐に染まり、油を流したようになった為、後世「油壷」といわれるようになったという。 現在城址は東大地震観測所や油壷マリンパークの敷地となるが、周囲にハイキングコースがあり、土塁や空堀を見る事が出来る。 |
入口にあたる内の引橋跡 | 内の引橋跡付近に見られる地形 堀跡か |
本丸空堀 |
本丸土塁 | 城址碑 | 三浦義同墓所 |