神奈川県横須賀市衣笠町 --本丸・物見岩-- 衣笠合戦の際、義明はこの岩の上で 指揮を執ったといわれる |
別名 | |
交通 | JR横須賀線「衣笠駅」から徒歩30分。 |
築城年代 | 1058〜65年(康平年間) |
築城者 | 三浦為通 |
形式 | 山城 | 主な城主 | 三浦義明・義澄 |
1058〜65年(康平年間)村岡平太夫為通が、源頼義から三浦郷を与えられて三浦氏を称し、築いたと伝えられ、以後7代泰村まで、約184年間三浦一族の本城となった。 1180年(治承4)8月、源頼朝が伊豆に挙兵すると、三浦義澄は頼朝と合流する為、石橋山へ向かうが、氾濫する丸子川(現酒匂川)に拒まれ、合戦に間に合わず、頼朝の敗北を知り引き返した。その途中鎌倉で当時平家方であった畠山重忠と対陣するが、重忠は義澄の父義明の外孫であった事もあり、この時は和睦し、義澄は衣笠城へ帰城した。しかし2日後、重忠は3千騎を率い衣笠城へ押し寄せる。三浦一族は城を抜け、久里浜から船出し、海上で頼朝と合流して安房に上陸したが、89歳の老齢であった義明は一人城に残り、討死した。 その後頼朝が鎌倉入りを果たすと、義澄は平家追討に活躍し、一族は幕府の要職を占めた。 しかし頼朝の死後、執権北条氏との対立が次第に深まるようになり、この頃衣笠城を中心とし、神金城・小矢部城・怒田城等の支城が整備されたと考えられる。これに対し北条氏も名越切通や名越切岸、住吉城等、鎌倉南部の守りを固めている。 1247年(宝治1)泰村の時、三浦一族は5代執権北条時頼に滅ぼされるが、この時佐原城主佐原盛時は時頼に従った為、三浦介を継いで三浦の命脈を保ち、新井城を築いて三浦半島南部を領地としている。 |
大手 | 平場 | 旗立岩 |
不動井戸 | 居館跡とされる大善寺 | 城址 |
堀切 | 最高所 | 搦手 ここから平作方面に抜ける古道があり 途中水の手跡?ややぐらがある。 |
咳地蔵 |
満昌寺 |
満昌寺・伝三浦義明廟所 |
近殿神社 三浦義村祭神 |
薬王寺旧跡 三浦義澄墓 |
薬王寺山門跡・駒繋石 |